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Note No.6

小説置場

Blink and you miss it

 


 認めるのは、そんなに辛いこと?


 君は、と言うとあなたは笑った。細められた瞳は濡れるようにきらきらしていて、唇からのぞいた白い歯が眩しかった。はにかむようにも見えたし、泣いてしまうようにも見えた。わたしが何かを言うよりもはやく、あなたは続ける。
「認めるのが、怖いんだね」
 やわらかく、あたたかに、それでいて何よりも鋭い言葉だった。認めるのが怖い? そんなこと言われなくたって知っていた。だから何なの、それがどうしていけないの。言おうと思って口を開いたのに、出てくるのはあなたの名前ばかりだった。壊れたみたいに唇からこぼれるのはあなたの名前で、あなたもわたしの名前を呼ぶ。耳に優しく響く声が、わたしの名を紡いでいる。たまらなくなって動いたのは、わたしが先かあなたが先か。気づいた時にはあなたの胸の中にいて、たくましい腕がわたしを抱きしめている。背中に手を伸ばして、力をこめた。厚い胸板、猫背の背中。鼓膜を打つあなたの鼓動がいつもよりはやくて、少しだけ笑った。
「…おかしい?」
 問われて、ううん、と首を振った。だってわたしの心臓も、いつもよりはやい鼓動を刻んでいる。全身に血液を送り、体中へ酸素が巡ってあなたの感触が広がっていく。鼻腔をくすぐるのは、甘くて胸のつまるあなたの匂い。全身をくっつけても足りないくらい、あなたで満たされたい。涙が出そうだ。あなたはそっと顔に手をかけると上を向かせるので、青い瞳と視線がぶつかる。夏の空のように明るくて光に満ちた、スカイブルーの瞳にわたしが映っている。わたしは自分をそんなに好きではなかったけれど、あなたの瞳に入り込んだわたしのことだけでは好きになれそうな気がしたものだ。
「認めるのは、辛い?」
 わずかに潤んだ目をして、あなたの唇から言葉が落ちた。いつもは凛としている声が少し震えているような気がして、わたしはあなたの胸元に顔を押し付ける。これで、泣きそうな目を見なくて澄むから。でもあなたは、変わらない声で続けるだけだった。
「ねえ、聞いて。認めるのは苦しいかもしれないし、寂しいかもしれない。それでも、俺のことを嘘にしないで」
 知らないフリをして、なかったことにはしてしまわないで。俺は一つも後悔なんてしていないから、どうか、何もかも見なかったフリをしないで―。懇願する言葉に、わたしは息を吐く。こらえていたのに苦しくなって吐き出した息は、自分でも驚くほどに熱かった。背中に回していた手に力をこめると、そこには確かな体があるのに。
「後悔なんてしてない」
 強がりでも嘘でもない。それだけは本当だと、いつだって胸を張っていられる。だけれど、そうじゃなかったのに。きっともう、許された時間は少ない。
「だけど、手に入れなければ失わなくて済む。最初から持っていなければ、なくさないでいい。わたしは臆病で、意気地なしで、どうしようもないから、もうこれ以上は耐えられないのよ」
 弱いわたしを許してとは言えなかった。あなたがどんな顔をしているのかはわからない。呆れているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか。あなたは小さく名前を呼ぶと、さっきと同じように上を向かせる。空色の瞳がぶつかった、と思うと同時に唇にやさしい感触がおりる。何が起きているのかを理解して、にじみそうになる視界をこらえて応えた。何度でも何度でも口付けを交わして、唾液を交換し合う。ほんのわずかでもいいから、わたしの細胞があなたの細胞と同化してしまえばいいと願いながら。
「わたし」
 まつげのぶつかりそうな距離にいるあなたへ、ぽつりと漏らした。あなたが笑っているから、声は自然と言葉になる。きらきらと光に照らされて、周りに輝きが散っている。照れるような顔には一つも陰が見当たらなくて、薔薇色の頬が照っている。溢れる生命力が、恵みのように降り注ぐあなたへ、言葉を紡ぐ。一度だって口にしなかった台詞が、箍が外れたように溢れ出る。本当はずっと前から知っていた。ずっと前から想っていた。ずっと前から伝えたかった。
「あなたを、愛してる」
 あなたは笑った。周りを取り囲んでいた輝きが、途端にあなたへと集まって、目もあけていられない。世界中の光り輝くもの全て集めたように、あなたが笑う。これ以上美しいものをわたしは知らない。ふわり、と風が吹くときらきらとした輝きが流れていく。あなたの輪郭もぼやけて、さらさらとこぼれていく。その軌跡を追うわたしの瞳からはぼろぼろと涙がこぼれて、視界はにじんでいる。
「認めることが耐えられなかったの」
 つぶやいて顔を覆う。次に顔をあげても、もうそこにあなたはいない。だって本当は、あなたはもういない。還らない人だったことなんて知っていた。そうなることがわかっていて、そうなることが怖くて、わたしはずっと認められなかったのに。もう二度と、目なんて開かなくていい。顔なんてあげなくていい。あなたが見えないなら―。
 そう思ったのに、わたしは顔をあげた。流れていく風の、最後の切れ端が唇に触れた感触を、わたしは知っているから。滲む視界で消えていった風を見つめながら、わたしはつぶやく。体温のない口付けを残したあなたへ。まばたきする間に消えてしまったあなたへ。
「あいしているの」