Note No.6

小説置場

真夜中のコーラス

  試験勉強中の姉の横で船を漕いでいたら、「あんたはもう寝なよ」と言われた。秀人は首を振り、寝てないよ! と叫ぶが無意味だった。留美は苦笑しながら、付き合うことないんだよ、と言うだけだ。

「…だってねーちゃん、俺いたら寝ないでしょ?」
 バイト三昧で赤点続きの姉が落第の危機で、今回の試験を乗り切らないと大変マズイということは、秀人もよくわかっていた。こういう時は体を壊さないようにある程度の所で眠るよう諭すべきなのかもしれないが、徹夜くらいした所で死にやしないのだ。それならやるだけやった方が良いし、弟が起きているとなれば負けず嫌いの姉のことだ、意地でも寝ない。
「うわー、あんたよくわかってんなー」
「まあな!」
 にしし、と笑う秀人の頭を軽く小突いてから、留美は机に向き直る。秀人はクッションを抱え込み、そんな姉の横顔を見ていた。
 二人がいるのはアパートの一室で、幼い頃から暮らしている。父親は小さい頃に死亡し、母親の女手一つで育てられてきた。親戚とは縁が薄かったのか、はたまた絶縁でもしているのか特別援助を受けた記憶もない。派遣社員とパートをこなしながら二人の子どもを育てるのは容易ではなかっただろう。お金はいつでもなかったし、洋服は基本的に姉のものを着用だったし、習い事もしたことがなければ玩具を買ってもらったこともほとんどない。家賃も出来れば切り詰めたいので、生まれた時からこのアパートの世話になっている。かろうじてお風呂とトイレは別で、あとは台所と、居間と部屋があと一つあるだけだ。あと一つの部屋は寝室代わりなので、勉強する場所はこの居間しかない。プライバシーって何? という家ではあるが、秀人も留美もとっくに慣れてしまった。というよりこの環境しか知らないから、当たり前なのである。最も、切り詰めに切り詰めた生活のおかげで貯金はそれなりにあるらしいのだけれど。
「…ねーちゃん、コーヒー淹れたげようか」
「え。あんたコーヒーは出来るの?」
 問題集から顔をあげた留美は、居間とつながった台所へ歩いていく弟を見る。
「平気じゃない? お湯に粉入れるだけだもん」
 俺ココアは作れるし、と言うのでとりあえずまかせることにした。秀人は、コンロで花火をしようとして危うくアパートを全焼させかけて以来、台所は立ち入り禁止区域に指定されていた。そのために近づかなかった所為か、はたまた天性の才能か、秀人には料理の才能がなかった。卵を爆発させるだとか鍋を焦がすはまだいい方で、ルーを入れるだけで出来上がるはずのカレーを摩訶不思議な料理に仕立て上げてからは、「料理はしなくていい」とお達しを受けている。秀人が作れる料理は、カップラーメンくらいである。
「大変だなぁ、ねーちゃんは」
「あんただって、高校行ったらこうなるんだからね。あんたあたしより頭悪いんだから、大変だよ」
「俺は平気だよー」
 きちんとコーヒーを淹れてきた秀人の言葉に留美は反論するが、本人は至って呑気な顔をしている。
「だって俺の頭じゃカシコウしか無理。落第するほうが難しいもん」
 ねーちゃん、ちょっと頭いいから大変なんだよ、とか言うので留美は思わず笑ってしまった。名前さえ書ければ入れると有名な高校へ行く覚悟はとっくに出来ていたらしい。まあ、弟の成績表を見てからはその結論にならざるを得ないよな、とも思ったのだけれど。
 そんなことを考えていたら、外階段を登る足音が聞こえてきた。荒々しいそれには聞き覚えがあって、二人は顔を見合わせた。それから数十秒後扉が開き、予想通りの人間が飛び込んでくる。
「たっだいまー! るみ、ひでひと、元気ーっ?」
 すっかり出来上がった母親は、「留美勉強お疲れ!」と言って寿司折を差し出す。秀人の頭をぐしゃぐしゃ撫でて、高笑いを始める。二人はいつものことなので気にしない。何だかんだ言ってちゃんと自力歩行は出来るし、かろうじて理性は残っているのだ。
「なんかちょうたのしーい! うたお! 歌うわよーっ!」
 けらけら笑いながら、謎の歌を歌い始める母親を、二人は面白そうに見ている。目配せしあって「ノルマ達成記念かな?」「みたいだね」という会話を交わした。きっと、辛いことも苦しいこともあったのだろうけれど。母は決して、酒を愚痴には使わなかった。楽しいときにしかお酒は飲まないと決めている人だと知っているから、酔っていてもまあいいか、と思ってしまうのだ。多少面倒くさくても。
「さあ、れっつごー! わん、つー、すりー!」
 留美と秀人の肩に手を回し、節をつけて歌いだす。よくわからない歌だけれど、とりあえず楽しいことだけは伝わってくるから、思わずコーラスしてしまう。壁の薄いアパートだ。明日は苦情が来るかもしれないけれど、それでも、真夜中のコーラスは喜びに満ちている。

 

Title:ゴスペラーズ