Note No.6

小説置場

As time goes by

  家に帰ると見慣れない靴があって、はて? と思ったら兄が来ていた。兄とは言っても、その差17歳。栄介にとっては兄という意識はなかったし、恐らく兄の信孝にしたって弟という意識は薄いだろう。便宜と戸籍上兄という名称が与えられているけれど、世間一般の兄に対する認識とはだいぶズレたものを持っている自覚はあった。

 リビングに顔を出せば、ラフな恰好をした兄と両親が目に入る。三人とも気がついて、母親が「おかえり」と言えば父親もそれに倣い、兄は「邪魔してるぞ」と答える。別に仲が悪いわけでもないし、このまま引っ込むのも変かと思って鞄を肩から外した。
「兄さん、いつ帰って来たんです」
「一昨日。大変だったぞ」
 海外赴任の多い兄なので、よりいっそう会う機会はない。日に焼けた顔はスポーツマンのようにがっしりしていて、栄介とは似ても似つかなかった。さて今回はどこに行っていたのか、と思ったけれどあちこち点々している人なのでわからない。大変だった、と言っているので辺鄙な場所だったのかもしれない。
「…あれ、義姉さんは? 来てないんですか?」
「実家だよ」
「…ついに愛想尽かされたんですか?」
 軽口を叩けば、「ついにってどういう意味だ」と返してくる。ぽんぽんと言葉を返してくる人間なので、楽といえば楽だなぁ、と栄介はぼんやり考える。
「久しぶりの日本だからな。子どもと一緒に里帰り中。その内こっちにも来る予定だからよろしく」
 栄介にとっては姪と甥にあたる、兄の子どもを思い浮かべる。別に子どもが好きというわけではないので、よろしくされても困る。第一子である姪が生まれた時、栄介はまだ中学生だった。「中学生でおじさんは嫌だなぁ」とぼんやり思っていたら、その辺を汲んでくれたのか「栄介お兄ちゃん」という呼び名に固定されていたことを知った時はありがたかった。しかし、会ったことがあるのは二、三回だ。顔もおぼろげだし、あっちだってこんな知らない人間が出てきても困るだろう。その日は予定を入れておこう、と誓った。
「いつ来るんですか?」
「一週間後くらいだな」
 ずいぶんのんびりしているな、と思った。すると今回は長く日本にいるのだろうか、と思ったことを悟ったのか、信孝はあっさりと言った。
「これからはずっと日本だよ。最後の海外赴任だったんだ」
 もうすぐ小学生だしなー、と言うのでなるほど、と納得する。そうか、兄さんはこれからずっと日本にいるのか、とすんなり思った。それは単なる事実確認で、感情の入る余地はまるでなかった。嬉しいとも思わなかったし、嫌とも思わない。薄情だとは感じるけれど、それが今まで当たり前だったのだから仕方ない。
「家はどうするんです?」
 まさかうちで同居じゃないだろうな…と思って聞いたら、「心配すんな」と言われた。それがどういう意味なのかはよくわからなかったが、とりあえず同居はないらしい。日本にいること自体どうも思わないが、毎日子どもと顔を合わせるのは「嫌」に分類できると断言出来る。
「そうだ。オヤジ、オレちょっと持って行きたいものがあってな。部屋、そのままだろ?」
 兄の部屋はずっとそのまま手つかずである。隣の部屋だけれどのぞいたこともない。母親が時々掃除機をかけている時、ちらりと見たことはあるけれど整頓された部屋だった。
「栄介、ちょっと手伝ってくれ」
 そう言われれば断る理由もないので、栄介は信孝の後ろに従った。とんとん、兄の背を見ながら階段を登っていく。広く大きい背中で、しっかりと筋肉がついている。
「お前背ぇ高くなったな。180くらいあるのか」
「…そんなにはないと思います」
 届くか届かないかくらいだろう。信孝は、楽しそうな声でふうん、と言った。
「オレが初海外赴任の時はちっちゃかったのになぁ」
「そりゃ」
 栄介は、吐息のような声を漏らした。小学校に上がる年に海外へ旅立った兄を見送りに行ったのが、初めて空港へ行った記憶だ。大きな飛行機とたくさんの人間はもちろん、辿り着くまでの複雑な手順にうろたえた覚えがある。
「俺は小学一年生でしたよ」
 信孝は「そんなにかぁ」と笑った。栄介も、何となくおかしくなって笑ってしまう。近しい兄ではなかった。ほとんど海外に行っていて、接することはほとんどなかった。仲がいいわけでもなく、お互いの存在を忘れかけることもしばしばだ。それでも、この人の時間に俺はいるのだな、と栄介はしみじみと感じている。