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Note No.6

小説置場

月に遠吠え

 お使いを頼まれて家を出た時、日は暮れかかっていた。史哉は封筒を手にしたままのんびりと道を歩きつつ、空を仰ぐ。夕暮れが過ぎ去って、オレンジ色から暗い青へと移り変わる空には大きな月が出ていた。玄関を出た時には白かった月も、今ではほんのりと明かりを放ちはじめていた。

 屋根の上にあるアンテナに、カラスが一羽止まっている。その後ろには、満月にも似た月が出ていて、映画のワンシーンのようにも思えた。史哉は唇の端に笑みを乗せながら、鼻歌を口ずさむ。
 部屋で本を読んでいたら、母親に声をかけられた。「ふみくん、悪いんだけど―さやちゃんにコレ持っていってくれる?」と本当に心から申し訳なさそうな顔で切り出されたのは白い封筒だ。分厚い中身は、この前出席した従兄弟の結婚式のものであろうと察せられた。この厚さではきっと80円では収まらないだろう。かといって、料金を払うのも何だかなぁと母親が思ったのも無理はない。
 この前までこの家で暮らしていた姉の沙耶香が家を出てから半年程度しか経っていない。付き合っていた恋人改め夫となった人物と同棲というか新居に移って、後は結婚式を待つだけ、という状態の姉が暮らすのはせいぜい徒歩で二十分程度の場所なのだ。それくらいなら歩いて届けるくらいわけはない。
 史哉と沙耶香は仲の良い姉と弟だった。おっとりとした沙耶香に、のんびりとした史哉は喧嘩らしい喧嘩もなく、日々を過ごしてきた。姉が結婚するということで離れることになったけれど距離は近い。姉も、職場恋愛の義兄予定となる恋人も、地元企業の人間なので転勤もあまりなさそうだし。義兄となるべき人間はおっとりとした姉にはぴったりの頼もしい人間のようだったし、史哉のことも可愛がってくれている。だから、離れるとは言っても心配はしていなかった。
 夜へと向かう町を歩き、記憶の中の地図と照らし合わせながら姉の新居への道を辿る。犬連れの人間や、部活帰りの中学生たちとすれ違う。何度も訪れたわけではないけれど、後もう少しで姉の家へと着くはずだ。帰る頃にはすっかり暗くなっているだろうけれど、今夜は月が明るいから大丈夫だろう。
 そこまで思って、ふと史哉は苦笑いを浮かべる。月が明るいも何も、道には等間隔で街灯が並んでいるのだ。人工の光だけでも充分道は明るいだろう。それなのに、史哉は昔から月が明るいと外を歩くのに便利だなぁ、と漠然と思っていた。
 うおおおおーん、と突然声が響いた。サイレンの音にも聞こえて何かあったのかと思ったけれど、続く声に耳を澄ましていたらそれが犬の遠吠えだとわかった。長く尾を引き、何かを訴えるように響く。吠え立てるだけのものとは違い、哀愁を感じさせるような声。
 史哉は辺りを見回して、そそくさと足早になった。携帯電話も持っているし、いざって時は大通りに出ればいいし、コンビにまで駆け込めばいい、と自分に言い聞かせるが、じんわりとした不安を拭うことは出来なかった。ああそうだ、今日は月が明るいからすぐに見つけられてしまうかも―。
 特別な思い出があるわけでもないし、両親や姉に聞いてみても犬に追いかけられたこともない。それなのに、どこからか聞こえる遠吠えに身がすくんでいる。追い立てられるような、捕まったら最後だというような思いに駆られるのは、今日だけのことではない。
 暗闇の中で光る瞳と、存在感を隠しきれない息遣い、空気に混じる獣の匂い―。まるでいつか自分が感じたことのがあるような、確かな記憶のようだった。史哉にそんな記憶はないのに。
 小走りになりながら道を辿ると、見覚えのあるアパートが目に入る。ほっと息を吐いて二階への階段を駆け上がる。チャイムを押せばきっとすぐに姉が出てくるだろう。扉に灯る小さなあかりに安堵しながら振り返った史哉の目には、大きな月と遠吠えする獣の姿がよぎったような気がした。