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Note No.6

小説置場

盈月

 

(殺さないで)


 自分の悲鳴で目が覚めた。大治は見開いた目で天井を見つめ、それが見慣れた粗末な藁葺きではないことを悟り、呼吸を落ち着かせる。闇に慣れた目が写すのはしっかりとした木造の屋根で、そろそろと視線を動かせば小さな文机や、積まれた書物が目に入る。ゆっくりと体を起こせば、小さな部屋に他の人間の気配はない。生家のように両親や兄と姉たちと重なるように眠った場所ではないことを身に染みて感じて、やっと息を吐いた。
 お寺の中に作られた自分の部屋だ、と思った。今日も勉強をしたり手伝いをしたり一緒に遊んだりして、ご飯を食べて話をして眠りについた。あの夜はもうここにはなくて、ぼくは大丈夫だ。
 それを実感したけれど、胸の奥で脈打つ心臓はどくどくと大量に血液を送り続けている。頭ではわかっているつもりだったが、大治の体は未だに実感してくれていないらしい。こうなってしまうと、布団に入っていても朝まで眠れないことを大治は経験的に知っている。布団の中で縮こまって目をつむっていても朝になってしまうなら、ある程度体を動かした方がいいのだ。そう思い、大治は布団を抜け出すと部屋の襖を開けて廊下へ出た。冷たい板張りの床は素足へ冷気を這い上がらせるが、気にせず歩く。きしきし、音が鳴るのを極力控え目になるよう気をつけながら進んでいると、廊下の突き当たりの部屋にぽうっと明かりが灯っていることに気づいた。あの部屋は伴内先生の部屋だな、と思う。本堂まで行くにはここを通らなくちゃいけないけれど、どうしよう、と思って足が止まる。けれど、大治の逡巡はすぐに終わった。当の本人が内側から襖を開けたからだ。糸のような目をいっそう細めて、伴内先生は言った。
「どうしました、大治」
 部屋から漏れる明かりに照らされて、伴内先生の顔には複雑な陰影が出来ている。長い髪を紐で一つにくくり、肩から垂らしている。糸のように細い目だけれど、しっかりといろんなものを見据えている。伴内先生は何も言わない大治を咎めることもなく、部屋へ招き入れる仕草をした。
「冷えてしまいますよ。中にお入りなさい」
 断るのも変だったし、断る理由も見当たらなかった大治は促されるまま部屋に入る。自分の部屋とは段違いに、書物だらけの部屋だった。文机の上には紙と筆が置いてあって、書き物をしていたらしいことがわかる。邪魔じゃないのかな、と思ったらしいことを悟り、伴内先生は静かに笑った。
「ちょうど終わりにしようと思っていた所なんですよ。…だから、はいどうぞ」
 言って差し出したのは、どこかの村へ法事に行った際貰ってきたという落雁だった。全員で分けたけれど、余りを日出や千が狙っていたような―と思って、伴内先生を見てしまう。すると、悪戯をするみたいな顔で言い添える。
「見つかったら面倒だからね。私たちで処分してしまおうと思って。内緒ですよ」
 唇に人差し指を当ててそう言うから、大治は思い切り首を上下に振った。伴内先生はそれを認めると猫のように笑い、自身も落雁に口をつける。
 二人は何も言わなかった。大治は起きてしまったわけを言わなかったし、伴内先生も起きてきたわけを尋ねなかった。ただ黙々と落雁を食べて、食べ終わったのを確認したら白湯を淹れてくれた。あたたかいお湯が喉を滑り落ち、体の中心で熱を灯す。
「それじゃあ、私もそろそろ眠りますよ。でも、その前に厠へ行きましょうか」
 自然な動作で半纏を着込むと、大治の肩にもそっとかける。大治は何か言おうと思ったが言葉が見つからず、うつむいたままだった。伴内先生はやはり何も言わず、大治の小さな手を引いて部屋を出る。
 厠は敷地の外にあるから、縁側を下りて向かわねばならない。満月は浩々と夜を照らす。ほんのりと白い息を吐きつつ厠への道を歩きながら、大治はぽつりとつぶやいた。手をつなぐあたたかさを思い出して。
「兄やも、手をひいてくれました」
 夜中に厠へ行きたくなって、でも怖くてもじもじしながら起こした兄は嫌そうな顔をした。だけれど、いつも必ず付き添ってくれて、必ず手を引いてくれていた。今みたいに。
「いいお兄さんですね」
 伴内先生が静かに言うから、大治はこくんとうなずいた。殺さないで、と胸のうちでつぶやいた言葉は叶わなかったけれど、あのやさしい手をちゃんと覚えていられているのだと、うなずいた。