Note No.6

小説置場

とおくからきこえる

 がたんがたん、と揺れる電車の中で千歳は夢を見ていた。瞼の裏で描かれるのは、狂おしく慕わしい記憶の欠片だ。
 春のある日、日出の提案で花見に行った。ふわふわの綿毛のような桜を見て、愛之助が作った料理を食べて、伴内先生のお酒をちょっと飲んでひっくり返った。あれは大変だった。怒られたし。無意識の内に唇が緩んで、千歳は笑顔になっている。
 夏は川で泳いだし、西瓜がおいしかった。秋は薄を摘んで団子を備えて、冬にはみんなで一緒になってあったまった。つないだ手のぬくもりだとか、一緒に笑った声だとか、そういうのを知っている。本堂のかび臭い匂い、光の強さと暗さ。土の道を歩いた足の裏の感触。夕日が差し込む境内。こんなに、俺の中はいっぱいだ、と千歳は思った。
 それは決して俺の記憶ではない。俺は生まれてから一度も寺で暮らしたことはないし、あんな風景は知らない。薄が群生する土手も知らないし、竹やぶもわからない。俺は今まであの景色を見たことがない。
 だけれど千歳は何よりも知っていた。あの夜につながる記憶を、宿していたからこそ、より強く知っていた。榮信さんが大治を背負っていて、愛之助は悟に肩を貸していた。史さんは少し足を引いていて、俺と日出は痣を作って泣いていた。榮信さんは何も言わなかったけど、きっと悔しかっただろう。先生のことを悪く言われて怒るのは、いつだって榮信さんがいっとうだったから。確かに悔しかったのに、千歳にとってはどこか甘い記憶に塗り替えられている。七人で同じ景色を見て、同じように怒って、同じようにやられてしまった記憶。一人だけしか持っていないと思っていたそれだけれど、七人で感じていたのだと思えばそれだけで胸の奥がふわふわと温かくなるのだ。
 ずっと持っていたい、と千歳は思っていた。大事にして、一つだってこぼさないでいたかった。だってこれがどれだけ尊いものか、千歳の根っこには深く刻み込まれてしまっている。決して自分の記憶ではないのに、胸を焦がすほどのいとおしさを、千歳は知っていた。一緒にいたくて、一緒に笑いたくて、殺しあわない世界で隣にいたかった。あの祈りを馬鹿になんて出来なかった。
 がたんがたん、と電車は揺れる。それに紛れるようにして聞くのは、やわらかな声で力強い声であかるい声だ。記憶の中にあるだけで、鼓膜を震わせることはない。決して触れることの出来ない、大事な人たちの面影。千歳の瞼が震える。狂おしく慕わしい光景を映し出す瞼が震える。
 帰り道、お寺への道を歩きながら一緒に歌った。榮信さんや史さん、愛之助に教えてもらった歌を、悟や大治に教えた歌を、日出とくちずさんだ。
 ねえ、あの歌が聞こえている? 何も知らないで、ただまっさらにみんな一緒にこのままいられるんだと思っていた。あの頃に歌った歌が、ねえ、聞こえている? 俺の耳には確かに届くよ。たとえ鼓膜は震えなくても、聞こえているんだよ。だって俺はきっと、声にならない声で呼びかけていた。どうやって言葉にすればいいのかもわからなかった言葉を、俺はずっと紡ぎ続けて歌い続けてきたんだよ。
 自分の記憶ではないと、千歳は知っていた。だけれど同じくらい、愛おしいのだと知っていた。たとえ触れることが出来なくても、会うことが出来なくても。祈りの深さも強さも、誰より千歳は知っていたのだ。
 がたんがたん、と揺れていた電車がホームに滑り込んだ。ゆっくりと停車して、千歳は目を開けた。空気が抜けるような音を立てて開いたドアを抜け、千歳は改札を目指す。
 たぶんずっと呼んでいた。あの歌を歌いながら、どうか届きますようにと思っていた。自分の頭を疑った方がいいんじゃないかって思い始めていたのも本当。だけれど、この胸を焼く思いが、こんなにも愛おしい思いが、嘘のわけがないって思っていたよ。思いたかったんだよ。いつか会えるだとかそういうことじゃなくて。ただ、あなたがいたらいいと、願っていたよ。この歌が、聞こえたらいいと思っていたよ。
 階段を上がり改札に目を向けると、あざやかな黄色が目に入り、千歳の口元がほころんだ。
「千歳!」
 大きく声をあげて手を振ったのは秀人で、隣にいる史哉はにこにこと笑っている。悟一は軽く目礼をして、大貴はおじぎをする。亜伊は軽く手をあげた。それらを見つめてから、ゆったりと微笑むのは栄介だ。何もかもを知っていて受け止めるように、笑っている。
 千歳はそれらを認めながら、走って改札を通り抜ける。みんなの元へ一直線に駆け寄って、笑顔を浮かべる。秀人が「千歳!」と言って抱きついてくる。史哉は「千歳くん」と笑っている。悟一と大貴が「千歳さん」と言って握手でもするみたいに腕を取る。亜伊は「千歳」と名前を呼んで、肩を小突いた。栄介が「千歳」とおだやかに口にして、わしゃわしゃと頭を撫でる。それらを受け止めながら、千歳は思う。
 決して自分の記憶ではない。それは知っていたけれど。ねえやっぱり、遠くからこの歌は聞こえていたんだよ。