読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Note No.6

小説置場

またこのごろや忍ばれん

 放課後の教室というのは案外課題がはかどるものである。その日に出された課題と明日の時間割をチェックして、必要なものから片付けていく。明日はリーダーと古文があるから、本文を書き写すのと単語のチェックだけしておけば、後は家に帰って訳せばいいのだ。そう思って誰もいなくなった教室で黙々と作業していたら、突然扉が開いてクラスメイトが入ってきた。
「あれ? 野崎?」
 忘れ物を取りに来たとかで部活中の人間が教室に来ることはあるけれど、入ってきた人間がそうではないことはわかる。あまり熱心ではなくて精々週二回くらいしか活動していないバスケ部所属の人間だから、というのもあるけれど、何より今日、大声で放課後のサッカー大会(有志)に集っていたうちの面子の一人だからだ。
「…毎原」
「予習してんの? 偉いなー」
 短く刈った黒髪に、適度に日に焼けた顔。何てことないクラスメイトの一員で、特別なかかわりがあるわけじゃない。だけれど、入ってきたのが毎原だと知った瞬間思わず顔が歪んでしまった。
「俺、明日までの課題あったの忘れててさー」
 言いながら自分の席に辿り着くと、がさがさと机の中を漁っている。俺とは違ってプリント類がごちゃごちゃに突っ込まれている所為で、目的のものはなかなか見つからないらしい。
「っかしいなー捨ててねえと思うんだけど…ほら、あのリーダーの自習課題。出してなくて、さっきトラセンに遊んでる場合か! て言われちゃって」
 ぶつくさつぶやきながら、聞いてもいないことを教えてくる。別に俺は興味ないし、どんな理由があったところでどうでもいいというのに。
「お。はっけーん。さて」
 言うと椅子を引いて座り、電子辞書を取り出す。もしかしてここでやるつもりか、と思って早々に退散しようとする。ずっとここに二人でいることになっては大変だ。ごそごそと机の上を片して鞄に詰めていくと、毎原が顔をあげて声をかけてきた。
「なあ野崎、これちょっと教えてくんね?」
 嫌だよ、と言えばいいのはわかった。だけれども、俺はそんなに強気な人間ではないので、渋々腰を浮かせた。
 中学校にはいろんな人間が来ているから、何となくグループというものがあった。女子ほど明確じゃなかったし、あんなに熾烈ではなかったから別に他のグループの人間とだって普通に接していた。高校に入ってからはグループそのものがなくなったけど、それでも何となくわかるのだ。たとえばクラスの中でもよく目立って、女子とも普通に会話できるグループだとか、女子とは関わらないけど男同士なら主導権握るグループだとか、クラスの中でひっそりと過ごしていくグループだとか。俺は目立たずひっそりと、クラスのリーダー格とはほとんど話さないで一年間を過ごすのが常だ。別に目立ちたいわけじゃない。勉強もしないで毎日遊びほうけている連中は、後で困ればいいのだ。だから、そういうグループの毎原とは取り立てて会話することもほとんどない。
「あ、用あるんだったら平気だから。悪いな、手間取らせて」
 どーぞどーぞ、と毎原は扉を示す。引き止めて悪かった、と言って机の上に置いてあるプリントへ視線を走らせる。その横顔を見ながら、自分でも心の奥からいらあっとしたものが立ち昇ってくるのがわかった。
 毎原はグループ的に、毎日馬鹿なことばっかりやってる人間だ。阿呆なことにかかわって、勉強なんて全然しないで、試験前になるとひーひー言っているアホどもだ。他人のことなんて全然考えず、自分の都合で突っ込んでくるような。
 そういう人間だと、思ってたのに。
「…わかんない所って、ドレ?」
 近寄って聞いてみると、わかりやすく顔を輝かせて「ここ!」と言う。ちらり、と視線を走らせて関係代名詞でつまずいていることを理解して指摘してやると、ありがとう、と言われた。この分だと、後でまた聞かれそうだなぁと思っている。
 毎原は真剣な顔でプリントへシャーペンを走らせる。案の定質問をされたので答えていってやると、すぐにプリントは出来上がる。元々別に頭が悪いわけじゃないらしく、補習に追われているのも見たことがない。最初からやっておけばいいのに。
「ありがとう、野崎。予習中だったのに悪いな」
 これお礼、と言って差し出されたのはハイチュウで、ためらっていたら「嫌いならごめんな。もしよかったら受け取ってくれよ」と言って笑顔を向けられた。少し考えてから受け取ると、楽しそうに笑った。
 もらったハイチュウを握りしめながら俺は思っている。こんな風に、人のことを気にかけている人間だ。前予習してて外で騒いでるやつがうるさいな、と思ったら真っ先に気づいたのが毎原で、すぐに静かになった。ちら、とそっちを見たら目が合ってジェスチャーでごめんな、と言われた。そうだ。毎原は決して馬鹿でも阿呆でもないと気づいてしまったのは、一体いつなんだろう。
「…毎原って、古典は得意だろ」
「うん、わりと好き。何で?」
「リーダーも、要領的には同じだろう」
 毎原は俺の言葉に、「アルファベットが受けつけねーの」と朗らかに答える。昔の言葉ならいけるんだけど、という顔はやけに真剣で、どこかで見たことのある顔をしていた。
 毎原はたまに遠くを見ている時があると、気づいたのはいつだろう。校庭で馬鹿騒ぎをしている連中を見た時かもしれない。単にうるさいな、と思って視界に入れただけだったのに。その時、俺は知ってしまった。サル山のサルみたいに騒ぎまくる連中の中で、ただ一人静かな顔をしている毎原に気づいてしまった。遠くを見て、静かな目をして、何かを見ていた。激流にも流されずにまっすぐと自分の足で立っているような横顔だった。いつでも本気で楽しんでいて、笑っていて、馬鹿なことには率先してかかわっている。だけどこいつはたぶん、馬鹿でも阿呆でもない。それどころかとても聡明な、澄んだ目をしているのだと、気づいてしまった。
「古典とか漢文はわりと楽しいんだよな」
 屈託なく笑う毎原を見ながら、こいつが単なる馬鹿だったらよかったのに、と思った。何も考えてなくて明日の事なんて考えられない阿呆だったら、後で困っているのを見て内心でせせら笑ってやることだって出来るのに。
「ながらえば、またこのごろやしのばれん、うしとみしよぞいまはこいしき?」
 突然そんなことをつぶやいた毎原は、あの時のような顔をしていた。静かで、澄んだ目。馬鹿なことをしている時とは全然違う。どこか泣きそうにも見えて、ほほえんでいるようにも思える。複雑でどんな感情を宿しているのか、俺には全然わからない。今まで一度だって、出会ったことのない顔だ。
「…何の呪文だそれ。和歌か」
「あ、そうそう。何か百人一首の一つ」
 よく聞かされてたから覚えちゃって、という顔は照れているようだけどそれだけじゃない。濡れるように光る目は、泣いているようだった。
 俺はプリントも終わったしもう用はないだろう、と席を立つ。本当にありがとうな、と言う毎原は真剣な目をしていて、どういう顔をすればいいかわからなかった。しんしんと、奥深くまで入り込むまなざしは、射抜かれるというより見透かされそうだ。
 教室を出て下駄箱へ向かいながら、古典の教科書を取り出す。一番後ろの資料ページに百人一首が載っているのを知っていたからだ。つぶやきを思い出しながら探し出したそれはきちんと載っていて、思わず舌打ちをした。
 阿呆のくせに、小倉百人一首を空で言えるヤツなんて嫌いだ。

 

 

「ながらえば またこのごろや忍ばれん 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」(藤原清輔)