読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Note No.6

小説置場

春や昔の春ならむ

「遠い日のうた」

月やあらぬ春や昔の春ならむ わが身ひとつはもとの身にして

 

 

 学校帰りにある寺から見える桜の花が開いた。一つ一つは小さいのに、集まるとこんもりとしていて「綿毛みたいだ」と言った人の声を思い出す。遠くから見ると薄紅色の桜は確かな質量があって、花だというのにたわわに実っている、という感じがする。寺の中だからあからさまに花見をするような人間はいないけれど、通行人は頭上の桜に気づくと足を止めて鑑賞する。
 ひらひらと花弁の舞う桜の下で、頭上を見上げれば青空と薄いピンク色が重なっていた。何度でも、こんな風景は見てきた。春になるたび見てきたし、これだけじゃなくて冷たい雨に散っていく桜も、アスファルトにへばりつく花びらも、真夏の滴るような緑も、秋になって色づく葉も、冬には丸裸になる木も、視界の中にはおさめてきた。春になれば当たり前に見える風景は何の気なしに流してきた。たぶん、花の咲かない桜なんて一体何の木だかわかってなかっただろうし、気にもしなかった。
 家に帰るまでの道のりにある寺は、明治時代にここへ移ってきた。元々はもっと南にあったそうだけれど、護岸工事のために移動しなくてはならなかったそうだ。縁起を調べた時に知った話だけれど、少なくとも俺はここに寺がなかったことを知っていた。この場所にこんな寺がなかったことなど、俺が一番よく知っている。
「…おお、毎原くん」
 ぼんやり上を見ていたら、和尚さんが声をかけてくる。昔調べ物をした時に知り合って、それからも何となく顔を出していたら顔見知りになった。別にここで誰かの菩提を弔ってもらっているというわけじゃないけれど、顔を見たら世間話をするくらいの関係だ。
「どうもッス。きれいですね」
「おお、この桜かね」
 はい、と答えて視線を移せば、和尚さんも桜を見る。そよ風に揺れてさわさわと花を揺らす様子は生命力に満ち溢れている。
「…これは、明治時代からあるんですっけ」
「ここへ移る時に贈られたものだから、まあ、それくらいかね。樹齢百年ほどだとか」
 口にこもったような笑い方をして桜を愛でる和尚さんを見ながらそうだよな、と納得している。ここに移った時に来た桜だというなら俺は見たことがない。俺の記憶にある桜は、村の入口から名主さんの家に行くまでの分かれ道に一本でん、と生えていた桜だ。そういえば寺に桜はなかったし、もう一つの菩提寺の方でもあまり見なかった。もしかしたら裏にあったのかもしれないけれど、俺は知らない。
 何年も、何百年も生きていく桜なのに、俺が見たあの春の桜ではなかった。春は何度も巡ってくる。気の遠くなるような年月でも、四季は必ず回ってきた。俺の知っている春を置いて、俺の知らない季節が訪れる。ひらひら、と風に乗って花びらが落ちてくる。精々一枚、まだ落ちる季節ではないからそんなものだ。ふわふわと舞う花びらに手を伸ばすけど掴めなかった。
「これくらいが盛りという話も聞く。もしかしたら、今が一番いい時期なのかもしれんよ」
 つぶやいた和尚さんが、花びらを俺のてのひらに落とした。つやつやしていて、意外と厚みがある。刻んだらさくっと軽い音がするだろう。こうやってみると花びらは真っ白で、薄紅色はどこにもない。
「ゆっくり楽しんでいっておくれ」
 言い置いて和尚さんは行ってしまうので、後姿に目礼をして見送った。手のひらの桜を握りしめる。こんな風に、つかめるのに。
 頭上で桜がそよいでいる。いつか見た風景と重なるように桜が揺れている。今ここにある桜を俺はきちんとつかめている。木の枝だって触れるし、幹を抱きしめることだって出来る。それなのに、俺が見た桜はもうどこにもない。道路を拡張する時に他の木と一緒に伐採されてしまったろう。
 俺に降り注ぐ月の光も星も日の光も、あの頃のものと同じじゃない。変わらずそこに月はあって、苛むように照らすのに、あの夜感じた月の光はもう二度と降り注ぐことはない。春の日差しも、夏の水の冷たさも、秋のやわらかな地面も、冬に吹きすさぶ風も、何一つ同じものなどありはしなかった。たった一つ、俺だけが取り残されているのに。

 


在原業平 古今和歌集恋五