Note No.6

小説置場

温む記憶

 そんな顔をさせたかったわけじゃない。恨まれるだとか、怒られるだとか、そういうのなら良かったのに、そういうのなら、いくらだって耐えられたのに。
「…ま、負けちゃ、たよ…」
 そういえばほとんど勝ったことなんてなかったや、と思った。不意をついたら出来ると思ってたけど甘かった。覚悟なんて出来てると思ってたけど甘かった。こんな顔をさせてることが、痛くて仕方ない。
「…馬鹿か。俺全戦全勝だろ」
「う、そ、だ」
 たまには勝ってたじゃん、と言いたかったのに、声にならない。うまく息が吸えなくて、頭にはたくさんの言葉が渦巻いているのに、きちんと音を紡げない。喉から漏れるのは、かすれた呼吸音。
「俺に勝とうなんて、無理なんだよ」
 泣きそうな顔を、させたかったわけじゃない。もっと俺のことを恨んで、俺を怒って、俺を忘れてしまえばよかった。楽しかった日々が全部塗り替えられるくらい、俺にがっかりしてくれたらよかったんだ。理由なんて一つもわからなくて、何が何だかわからなくて、ただ怒って恨んで失望してくれたらよかった。
「…俺に隠し事しようなんて、無理なんだよ」
 息が出来ない。たぶん、ちゃんと空気が入って来ていない。穴の開いた喉から、空気は逃げていく。
 視界が狭くなって、ちゃんと顔が見えない。俺がこんな顔をさせてしまった、千の顔が見えない。きっと無理やり笑おうとして変な顔をしているんだ。笑顔のつもりかもしれないけど、きっと泣き出す前の顔をしているに決まっている。俺は知ってるんだ。千は嘘の笑顔が本当に下手なんだから。だから泣きそうなんだって、わかってるんだよ。だから無理に笑わなくていいんだよ。俺のことを怒って、罵って、見捨てちゃっていいんだよ。
「隠し事なんて、許さねえから」
 だから、全部言っちまって正解なんだよ、と言う声が聞こえる。どんな顔をしているのかもうわからない。声だけが落ちてきて、それもどこか遠い。遠い場所から声が聞こえている。だけど、その言葉があまりにも千らしくて、おかしかった。
 ねえ千、俺、全部抱えていこうと思ったよ。誰もこんなこと知らなくていいんだ。俺がおかしくなったとでも、思ってくれたらよかった。全部抱えて、何も知らないままで逝ってくれたらいいと、思っていた。だけど。
「日出は、ほんとうに、隠し事が下手なんだから」
 全部わかっちまうよ、と言う千の声は震えていた。ああ、泣いているのかもしれない。そんな顔をさせたくなかったから、何もかも黙っていようと思ったのに。千の言う通り、俺は隠し事が下手だった。誰よりずっと一緒にいた、千の顔を見たら決心さえも鈍ってしまった。
「ご、め…ん…な」
 声になったかはわからない。ごぼごぼと液体が溢れるみたいな音に紛れてしまって、届いたかどうかわからない。だけど言いたかった。黙って逝くつもりだったのに決心は揺らいで、漏らしてしまって、それでも最後の仕事だけはちゃんとやろうと思ったのに、それさえも叶わなかった。
「ばぁか」
 幻聴かもしれないけど、千が笑って言った気がした。お前にやられるなんて、俺の誇りが許さないんだよ、と言う。
「だからこれでいいんだ」
 何も見えない。声さえも届かない。それでも、笑ってくれてたらいい。最後にきちんと、千をこの手で殺すことも出来ず先に逝ってしまう俺にさえやさしい千が、笑ってくれてたらいい。言いたいことは山程ある。最後に事実を知らされて、最後に俺を殺させて、その手を汚させてしまってごめんな、と何度言っても言い足りない。だけど、それよりもっと言いたいことがあるのだと気づいてしまって、本当に俺は駄目なやつだ。
「せ、ん」
 名前を呼んだ。聞こえているかもわからない、届いているのかもわからない名前を呼んだ。七歳の年にここへ来て、そしたらおもしろいやつがいて、すぐに仲良くなった。どこに行くのも一緒で何をやるのも一緒で、二人が一緒なら、怖いものなんて何一つなかった。
「ありが、と」
 お前に会えてよかった。お前と一緒にいられてよかった。こんな役をさせてしまってごめん、と言ったらきっとお前は馬鹿って笑うだろう。俺は確かに馬鹿なんだ。だから、最後の約束を待っていることにする。
 もしも生まれ変わるなら、俺は馬鹿だからいろいろ忘れちゃうかもしれない。だからどうか、千が呼んでいてくれ。名前を呼んで、俺はここだと呼んでいてくれ。そうしたら、俺は必ず辿り着く。呼ぶ方へ、お前の呼ぶ声を、きっと探し出す。
 もう声も聞こえない。俺の声も、千の声も、何も聞こえない。だけど、きっと千は俺を見ていてくれるだろう。最後の仕事を成し遂げられなかった俺だけど、お前に看取られるなんて最高だよ。そんなことをさせてしまう俺は本当に最低だけど、でも、やっぱり言いたいことは一つだけだった。
 ありがとう。いま、お前の胸で眠るよ。

 

 

ゴスペラーズ「ラヴ・ノーツ」より
「もしも君と僕が 生まれ変わるなら 愛の名を呼ぶ声を探し出すよ」
「ありがとう いま君の胸で眠るよ」