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Note No.6

小説置場

淡い体温


 いつまでも、抱きしめていた。何も映さなくなる瞳をずっと見つめて、何も話さなくなる唇をずっと見ていた。力のなくなっていく体を、消えていく命の灯火を、弱まっていく鼓動を、最期の姿を見ていた。
「…日出?」
 名前を呼んでも、返事はなかった。もう聞こえていないのか、それとももう日出の魂は旅立ってしまったろうか。
 何もかもが突然で、悪夢のような一夜だった。満月が嘘みたいに明るくて、何が何だかわからないうちに、何かが始まってしまっていた。意味がわからなくて、七つの時からずっと一緒にいた日出は別人のようだった。いきなり渡されたはずの脇差を日出はためらいもせずに使ったのか、刃にはべったりと血がついていた。意味がわからなくて、どうすればいいかわからなくて、別人みたいに冷えた目をしている日出にどうすればいいかわからなくて。だけど、その目が何より怖がっていたから、すとんと安心した。日出は、日出のままなのだと。
 ためらいながら語られる言葉からは確かな決意が滲んでいた。全てを知ってなお、全てを飲み込んで、何もかもを背負って逝くつもりなのだとわかってしまったから。そんなこと、させられるはずがなかったんだ。
 俺たち、二人一緒なら怖いものなんてないと思えたよ。だけど俺たち、一人になったらきっと誰より弱いんだ。日出はきっとそれをわかってないから、わかってるだけ俺の方が適任なんだ。大体、俺の方が強いんだから、こうするのが正解だった。
 何も言わない体を抱きしめる。正々堂々正面から向かいあって、首をかき切った。ためらいがなかったと言えば嘘になるし、だから完全に頚動脈を切れなかったのかもしれない。苦しめたくなかったのに、ごめんと駆け寄って抱きしめたら腕の中で、日出は「負けちゃったよ」なんて言うから、出来るだけ軽い声で返すしかない。
 こうなってしまったことを、後悔しない日出ではなかった。全部背負って逝くつもりだったはずで、罪も罰も受け入れようとしていたに違いない。だけど俺は、何一つ知らないままじゃなくてよかった、と心から思っている。だからこれでいいんだと、伝える。少しずつ、確実に死へ近づいていく日出へ、これでよかったのだと届けたかった。俺が殺した日出に、何よりも。
「日出」
 答えはない。腕の中の体を抱きしめて、そっと胸に耳を押し当てる。弱々しいながらも脈打っていたはずの心臓の音は、もう俺の鼓膜に届かなかった。何も聞こえず、ただ強く抱きしめた。胸に耳を押し当てたままで、日出の体を抱きしめる。
 俺より少し背が低いことが腹立つらしくて、縮め縮め、とよく頭を叩いていた。俺より身軽で、村一番の杉のてっぺんまで、誰よりはやく辿り着けるのは日出だった。俺の方が長く泳げたけど、日出の方が長く潜れた。動物みたいにぴょんぴょんと跳ね回る日出の姿は、もう二度と見られない。俺がそれを奪ったから。
「…日出」
 飛び散った血液はまだぬるぬるしていて、抱きしめた俺の手も日出の首すじも二人の着物も真っ赤だった。日出の体から流れた血はまだあたたかくて、ここにいるような気がする。体を折って胸に耳を当てながら目を閉じた。
 最後の約束を、いつかきっと果たすよ。もしも生まれ変わるなら、いくつもの時間を越えて、きっとお前を迎えにいくから。今度はこんな風に殺しあわないでいい世界で、きっと会おう。俺はまたお前に会いたいから、絶対にお前を探すよ。
 骨ばった体は小さい。膝の上に乗った体は薄くて、吹けば飛んでしまいそうでもあった。だけど、真っ赤に彩られた日出の体はあたたかい。ここで生きている俺の体温が移っただけかもしれないけれど、まだあたたかいこの体を離すことなんて出来ない。
「日出」
 目を閉じて名前を呼べば、答えてくれる気がした。夜中布団にもぐって隠れてた時みたいに、小さく名前を呼んだら楽しそうな顔をして「なに?」って答えてくれるような気がするのに、もう声は聞こえない。あの声も、あの表情も、全部俺が奪ったんだ。
「日出」
 俺たちはもう、さよならをしなくちゃいけない。日出がやり残した仕事を、俺は変わりにやり遂げなきゃいけないからずっとここでこうしているわけにはいかない。さよならの瞬間に生まれた約束を持って、俺はもういかなくちゃいけない。きっと長い間、ずっと苦しんできた日出に比べればこんな痛みの時間は短いものだろう。俺はもう、行かなくちゃ。
「…ひで」
 何も言わない体を抱きしめている。うっすら目を開けばそこには現実がある。俺の太刀傷でぱっくりと裂けた首、そこから周囲にあふれるおびただしいほどの血液。光の消えた瞳。真っ白い顔。それでも俺は、鼓動の聞こえない胸に耳を押し当てたままで動けずにいる。だって、こんな風に抱きしめている日出の体はまだぬくくて、あたたかい。
 抱きしめた温もりはまだ、消えないや。


ゴスペラーズ「ラヴ・ノーツ」より
「いくつもの時を越え 迎えにゆくから」
「さよならの瞬間 僕らは生まれた」
「抱きしめた温もりまだ 消えないや」