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Note No.6

小説置場

稲穂の海


(どこにいるの)


 空が高い。金の稲穂が揺れている。ざあざあ、耳の奥で鳴るのは風と、それにあおられた稲穂がこすれる音。しゃがみこんでいるから、きっと誰にも見えない。むっとするような匂いが辺りを満たしている。温められた植物の匂いはむせ返るよう。膝を抱きしめてちらり、と上を見る。青い空がすこんと突き抜けている。太陽の光がまぶしい。空が遠い。ゆっくりと旋回する黒い点は鳶か何かだろう。はあっと息を吐く。ここにいたらきっと見つからない。
(   は、くやしがるかもしれない)
 地団太を踏むかもしれない、と思って笑みがこぼれる。それなのに、思い浮かべたはずの顔がわからない。霞がかったように顔の部分だけぼんやりしていて、知っているはずの顔が出てこなかった。
 ざあざあ、と風がうなる。金の稲穂が揺れる。高い空で鳥が鳴いている。澄んだ声で、突き刺すように、下界を見下ろして飛んでいる。抱きしめた腕に力をこめる。風が強くなってきたのだろうか。音がうるさい。
 心臓の音が大きくなった気がした。どきどき、と頭にこだまする音に大きく深呼吸をする。稲穂の匂いがする。むっとする熱が動く。大丈夫、と頭に浮かべようとするのは、見つけられなくて悔しがるであろう人たちの顔だ。絶対見つけてやる! と息を巻いて、覚悟しとけよ! なんて笑っていた人たち。よく知っているはずの、ずっと一緒にいた人たち。それなのに。
(なんて、)
 ざああざああ、と稲穂が揺れる。音の大きさにびくり、と肩が震える。振り向くけれどそこには稲穂しかなかった。当たり前だ、と思って安堵の息を吐こうとしたけれど、何だか胸の奥がむずむずする。抱きしめていた腕を解いてそっと立ち上がる。背丈を覆い隠すほどではなかったはずの稲穂だから、立ち上がればいつものあぜ道が見えるはずだった。そうしたら、名前を呼べばいい。声をあげてどこにいるのか、と名前を呼べばよかったはずなのに。
(なんて、呼んだら、いいんだろう)
 立ち上がっても、見えるのは稲穂だけだった。自分の腰くらいまでしかなかったはずの稲穂は、立ってもまだなお背より高い。頭上高くそびえたち、覆いかぶさるようだった。息を吸った。深呼吸をして、それでも叫べば声は届くはずだと音を出そうとする。だけれどそれなのに、呼ぶべき名前が見つからない。
 頭上の空が遠い。突き抜けるようだった空は稲穂に覆われてほとんど見えない。混乱しかかった頭を必死にさらうのに、見当たらない。知っているはずなのに、その人たちの笑顔を知っているはずなのに、まるで顔が出て来ない。名前がわからない。このままでは埋もれてしまう。金の稲穂に呑み込まれて、そのままなかったことにしてしまう。何もかもなかったみたいに。何一つ知らないみたいに。どこかにいるはずの誰かの名前。どこかにいるはずのあなたたちを知っているのに。ちゃんと覚えているのに。
(どこに)
 ぐるりと辺りを見回しても、見えるのは稲穂だけ。どこにいるの、と叫びたい。どこにいるの、と呼びかけたい。囲い込まれるような稲穂から抜け出して、どこにいるの、と問いかけたい。それなのに、呼ぶべき名前が見つからない。
 ピピピ、という電子音に悟一は目を覚ます。手探りで目覚まし時計を止めると、起き上がってベッドから抜け出す。寝る前に枕元に置いておいた眼鏡を取ってかけると、視界が一気に明瞭になった。あくびを一つかみ殺すと、昨晩用意しておいた学校の鞄を掴んで、階下へ向かう。
 階段を下りながら、悟一はもやもやと胸にわだかまるものを感じて胸元をさすった。夢も見ないくらいしっかりと眠ったはずなのに、本調子ではない。胃もたれでも起こしているような感覚だけれど、夕食は取り立てて油っぽいものを食べたわけでもない。それなのに、錘でも呑み込んだみたいだ。
 居間の扉を開けると台所に立つ母親と目が合い、朝の挨拶を交わす。鞄を置いてから洗面所へ向かって身支度を整えると、そのまま制服に着替えた。再び居間に戻ると朝食の準備が出来ていたので、席について箸を手に取る。
 一連の動作を行う間にも、わだかまりが解けない。腹の奥がむずむずしていて、落ち着かない。重大な忘れ物でもしている気がして仕方なかった。頭の中でいくら思い起こしても、今日提出の課題はないし、明日提出する分はとっくに終わっている。予習のやり残しもなければ、特別な連絡事項も思い当たらない。それなのに、何かをどこかへ置き忘れてきてしまったようだ。
 思い当たることは一つもなかった。ただ一つ確かなのは、胸の中のわだかまり。忘れたことを忘れてしまって、何を置いてきたのかすら覚えがないのに、重大な何かを失っていることだけはわかる、そういう気がした。いらいら、と悟一は神経を苛立たせながら朝食を終える。歯磨きをしている間も、もう一度時間割と持ち物を確認している間にも、それは消えなかった。
 気持ちを切り替えようと早めに家を出ることにして、玄関で靴を履く。行ってきますと一声かけて扉を開くと、太陽の光が目を射抜く。そのまぶしさにくらむ悟一の瞼の裏に、金の稲穂がよぎった。