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Note No.6

小説置場

この瞬間を、待っていた

「俺だけかと思ってた」と言って、照れるように笑った君が、本当は泣きそうだったって、知っている。


 お客さんが来たことを告げる鈴の音。視線を向けると愛之助がいて、自然な笑みが浮かんだ。「いらっしゃいませ」と言いながら、机を拭いていた手を休めて入口へ近づいていく。そこで、今日は一人ではないことに気づいた。
 心臓が跳ねる。なぜなら、愛之助の後ろにいたのは、目にもあざやかな黄色い髪をした少年だからだ。この場所から何度か目撃して、実際近くで見たこともある。間違いようがなかった。着ている制服だって髪の色だって、何より体中が叫んでいる。紛れもない日出が、一体どうして愛之助と一緒にいる? 混乱しながらも足を踏み出し、席へと案内しようとする。どうして、覚えていないはずの二人が、なんで、どうして一緒にいて、こうして俺の前に顔を現すんだ? 一体何が起きている?
 それでも二歩三歩、と足を動かして空いている席へと案内した。習慣とは恐ろしいもので、手際よくメニューも置けた。だけどもう、そこまでだった。だって最後の一人。愛之助と日出の後ろに隠れるようにして立っていた、ひとり、が。
「えいしんさん?」
 目をいっぱいに見開いて、丸く口を開けている。そこから零れた声がつむいだ、名前。黒い髪をして、利発そうな顔をした少年。学ランに身を包んでいて、その辺のどこにだっていそうな、何の変哲もない少年が、つぶやいた言葉の意味。
 殴られたようだった。心臓をわしづかみにされたみたいで、苦しい。だって名前を呼んだ。俺しか知らない名前を呼んだ。誰も知らないはずの名前を呼んだ、君を、俺は知っている。
 太陽みたいだった。日出と一緒にいたらいつだって最強で、散々振り回されたし迷惑だってかけられた。でも、日出の暴走を止められるのは一人だけだった。馬鹿みたいに見えて、本当はちゃんと最後の一線を知っていた。泣かせることだけはしなかった。傷つけることだけは絶対しなかった。楽しかったよ。光をいっぱいにつめ込んで、俺たちを照らしていたよね。
「…せん」
 知っているよ、君の名前を。誰も知らないはずの名前を呼んだ君のことを、俺は知っている。
 千は、え、う、と意味のない呻き声をもらす。とっくに座っている愛之助と日出は、不思議そうな顔で突っ立ったままの千を見ている。しかし、千はそれにすら気づいていない。右手で頭をかいて、左手で頬を触っている。視線は宙を彷徨っていて、口は開いたままだ。恐らく頭の中は、かつてないくらいに混乱している。それはそうだろう。日出だって愛之助だって、きっと何も覚えていなかった。それなのに、こうしていきなり俺みたいなのが現れたんだから。
「ちとせ、どーしたの?」
 日出が声をかけて、そうか今の千はちとせと言うんだな、と思った。愛之助もものすごく不審そうだ。千はその言葉に我に返ったらしく、俺を見てから日出と愛之助を見て、もう一度俺を見た。目が潤んでいるのはきっと見間違いじゃないだろう。
「え、と、あの、実はちょっと、知っているひと、だった」
 ぎこちないながらもどうにか言葉を絞り出す。確かにまあ、間違いではないのでうなずくと、日出と愛之助はふうん? という顔をした。知っている人に会ったくらいで、どうしてこんなに動揺しているのか。いまいち納得していないのだろう。
「すみません。ちとせくんとは、もうかれこれ10年以上会っていなかったもので。お互い居場所も知らなかったし」
 こんなに近くにいるとは思わなかったよねぇ、と言ったらものすごい勢いで首を縦に降った。実感がこもっていて、ほんのり笑顔になる。
「そーなの? それはびっくりだね、確かに!」
 10年ぶりの再会だー、と素直に驚く日出は、すごいねーと笑った。愛之助も「そういうこともあるんだな」と言って感心している。
バイト、何時に終わりますか?」
 千はというと、昔から立ち直りは早かっただけあって、そんなことを聞いてくる。壁の時計を見て「あと二時間くらい」と言えば、「じゃあ待ってます」と言う。その顔は、まだ赤味が残っているものの、しんとして落ち着いていた。
「うん、ありがとう。それじゃゆっくりしててね」
 そう言葉をかけてから二時間、どういう立ち居振る舞いをしていたのか。記憶はほとんど定かではない。だけれど二時間後、バイトが終わって通用口から出た所で待っていた千と顔を合わせた。そして、「俺だけかと思ってた」と言って、照れるように笑った君が泣きそうだったことだけは、あざやかに焼きついている。