Note No.6

小説置場

深海魚の独白


 まるで沈没船に取り残されるようだ。

 

「だって、どうしようもないよ」
 困ったように笑っていた。それは笑顔の形をしているけれど、楽しいから浮かべているんじゃないってことくらいわかる。千歳はもう一度小さくつぶやく。口の中で言葉を転がすようにして「仕方ないって」とつぶやく。
「…止めにしようって、思わなかった?」
「まさか」
 肩をすくめるようにして言う様子は、そんなこと思ってもみなかった、て顔だ。たぶんそれは嘘じゃないんだろうな、と思った。嘘偽りなく、真っ直ぐにまっさらに、ただ信じて願っていたから。
「それじゃあ…止めにしようって、思っている?」
 過去の日々を思い起こした時、きっと千歳はためらわずに答える。自分の頭を疑ったことは数知れずあったとしても、再会を望む自分の祈りの強さや深さに嘘がないと、きっと言い切れる。
 千歳はくしゃり、と顔を歪めた。「ヤだな栄介さん、何言ってんの」という顔が浮かべるのは笑顔になりきれなかった別の表情だ。笑うことも泣くことも出来ず、歪なままで張り付いている。
「今も千歳は、持ち続けようと思っていられる?」
 卑怯だと思うし、こんな風にある種責め立てるように言わなくたってよかったのに。それでもなぜか、俺はこうして言わずにはいられない。そう言うことで一体何をどうしたいかもわからないのに。
「…だって栄介さん」
 困ったような顔をして、何とも言えない顔をして、やっぱり千歳は俺の名前を呼ぶ。ぼんやりそれを見つめながら、俺は投げ出してほしいのかな、と思った。もう嫌だって、みんな忘れたい、って言ってほしいのかな、と思った。
「どうしようも、出来ない、でしょ」
 弱々しく笑った。泣きそうでもあったけどそれは確かに笑顔だと、残念ながらわかってしまう。300年くらい前にもこんな笑顔を浮かべていたことを俺は知っていて、あの時と寸分違わないその表情の意味を、俺が間違えるわけがない。出会って数ヶ月しか経ってないけど、五年近く一緒にいた記憶がある。笑った顔も怒った顔も、泣いた顔も悔しそうな顔も全部知っていた。
 矛盾を孕んだ記憶を抱える、唯一の二人。痛いくらいにその事実を思い知る。会いたくてたまらなくて、また一緒に笑いたくて、会いたくて会いたくてどうしようもなかった人たちは、持っていなかったから。
 望んだことは半分だけ叶って、半分はいくら手を伸ばしても届かないんだと思い知らされた。唯一共有出来るのは俺たちだけで、分かち合いたい人たちは当たり前の顔で俺たちを知らない。俺たちだけは知っているのに。
「…そうだね」
 俺はきっと、千歳に言ってほしかったんだなぁ、と思った。もうこんなのは嫌だ、どうして覚えてないの、どうして俺たちだけ覚えてるの、――こんな記憶要らない、全部忘れたいんだって。
「選べない、ね」
 何度か願ったり祈ったりしたことはある。消えてしまったら、最初からなかったみたいに過ごしていられたら。そうしたらきっと、こんな風に苦しくなかった。変哲もなく過ごしていられたし、至って普通の友達のように笑い合っていられただろう。だから望まなかったわけじゃない。
「…沈没船に取り残されたみたいだ」
 ぽつり、とこぼしたら千歳が怪訝そうな顔をでこちらを見る。俺は少しだけ笑って、言葉を続ける。
「一人ずつ船から出て行くのに、俺たちだけは下りられない」
 望まなかったわけじゃない。祈って願ったことくらい、何度もある。だって持っているのは、抱えているのは苦しくて重くてしょうがなかった。だから消えてしまえば――と夢想したのは一度や二度じゃない。だけどその度、わかっていたんだ。
「このまま沈んでいくとわかっているのに、絶対離れられない」
 だってこの記憶が消えてしまったなら。俺の記憶ではないけど、俺が抱えたこの記憶、思い出、感じたこと知っていること、なくしたくない風景。そういう諸々全部がなくなってしまえば、確かに俺たちは楽になれる。だけどそれを手離したが最後、出会いすら全部消えてしまうんだ。あんなに歓喜で打ち震えて、体中全部が喜びの声を上げていた。日々を過ごすだけで、記憶にある人たちとつながっていること、それだけでこの上ない喜びだと思っていた。
「俺たちは沈没船に取り残されてるみたいだね」
 ふふ、と笑って言ったのは自虐からじゃない。そんな自分たちがおかしくて、だけど同じくらい認めていたからだ。さっき千歳が言ったように「どうしようも出来ない」って知っていた。
「確実に沈むって知ってるのに。俺たちはしがみついたまんまだ」
 少しだけ俺を見てから、千歳が空気を吐き出して笑った。ふは、と漏れた息が空気に溶ける。「なるほど、確かに」と納得顔をしているのは、実感がこもっているからだ。
「それなら、栄介さん」
 記憶を持ち続けているのは、苦しくて痛くて、怖い。だって呑み込まれてしまいそうで、思い出したくないこともたくさんある。だけど同じくらい、大好きで抱えていたくて蔑ろに出来なくて、何より尊いものも知っている。
 だからもう、俺たちは自分自身がどれだけ馬鹿だと思っていても、捨てることなんか出来ない。痛いのも怖いのも辛いのも苦しいのも全部天秤にかけても、「どうしようも出来ない」くらい俺たちはこっちを選んでしまうんだと、わかっている。
 千歳は呆れたような、それでいてどこか清々しい顔で言い切る。
「俺たち、深海魚になれるかもしれない」

 

 


(海の底で、ぼくらは)
(ゆらゆらと夢を見ています)