Note No.6

小説置場

繰り言


 時々、こわくてたまらなくなるよ。


 朝起きてから眠るまでの間に、一体何度疑問を覚えるんだろう。たとえば、クラスメイトの何でもない話を聞いた時だとか、教授の雑談を耳にした時。欲しかったCDが手に入った時や、ずっと読みたかった本の表紙をめくる時。そういう時俺はきっと、無意識の内にほほえみを浮かべているはずだ。
 その度に胸に突き刺さるものがある。楽しいと思った瞬間、喜びがこの胸に溢れるまさにその時、同じくらいの強さで頭をもたげる疑問が、いつだってこの身を苛んでいる。
 ねえ。俺はこんな風に、笑うことを許されているのかい?
「――栄介さんって、昔から真面目だよなぁ」
 呆れたような顔で千歳がストローを思い切りすすった。冷たいジュースが喉を駆け下りていく。俺はその様子を眺めながら、千歳の声を聞いていた。
「でも、わからないって話じゃないでしょう」
「まあ、一応」
 心持ち下がった眉で、もごもごとうなずいた。呆れてはいるけど、それは決して理解出来ないからじゃなかった。むしろ、俺が言うこと以上にきっと千歳は理解している。あの夜を一番長く過ごしたのは、目の前のこの子だから。血生臭い夜を、最後まで生き延びた。
「俺だって一応、思うことは思うよ。ってか、特に悟一とかうわあってなる」
 言い訳に似た響きなのは、たぶん自分が俺と同じような感想を持っていないからなんだろう。何だかそれを申し訳なく思っているみたいだ。別にそんなこと望んじゃいないのに。俺と同じ罪悪感を、持っていて欲しいわけじゃないのに。
「ひとごろしだから」
 ぽつりと漏らされた言葉は、この場所にそぐわない。チェーン店のコーヒーショップで交わされる会話にしてはやたらと物騒で、異世界の言葉のようにさえ思える。だけど残念なことに、俺と千歳にとってこの言葉は紛れもなく、日常の延長線上にあった。
「そうだね」
 ゆっくりと肯定する。俺が罪悪感を抱えているのも、千歳が理解しているのも、同じ場所から出発している。自分のものではないのに、生まれた時から持っていた。自分自身と融合するように、当たり前のように抱えてきた記憶。狂おしいほどの後悔、身を焦がすほどの罪悪感、圧倒的な喪失。それら全てを、千歳と俺は身に宿して生きてきた。
 この手が直接命を奪ったわけじゃない。この手は一度も血を浴びたことなんてなかった。だけど、まるで自分自身のことのように感じている。知っている。肉を切り裂く感触も、浴びた血液の温かさも、物言わぬ亡骸の重さも、充満した血の匂いも。
「殺してしまったから」
 つぶやきは、思ったよりもぼやけた響きを持っていた。うわごとのように唇から離れて、自分でもどきりとした。あの夜を思い出しているみたいで、後悔そのものを形にしてしまったようで。心そのものが、あの場所に行ってしまったようで。
 だけれど千歳は気にすることなく、俺の言葉にうなずくだけだ。殺してしまって、それから出会った人たちを思い出しているのかもしれない。実際に出会った彼らは、あの時の記憶を一つも持っていなくって、殺されただなんて夢にも思っていない。それでよかった。あんな記憶、覚えていなくて充分なんだ。自分の命が消える瞬間なんて、大事な人を手にかけた記憶なんて。
「だから時々、思うんだ。俺は笑っていてもいいんだろうかって」
 さっき言ったことをもう一度繰り返す。俺は毎日生きていく上で、何度も笑顔を浮かべている。場を潤滑に進めるためだとか、波風を立てないようにだとか、心にもない笑みのことも多々ある。でも、本当に嬉しくて楽しくて、心を動かしていることも事実なのだ。
 人殺しなのに。俺の記憶は、この両手は、真っ赤に血塗られているのに。笑っていてもいいのだろうか、という疑問が拭えない。俺はひたすら、後悔だけを抱えて生きていかなくちゃならないのではないだろうか。理由なんて簡単だ。だって俺は人殺しなのだ。血に染まった人間なのだ。楽しいと思うなんて、喜びを覚えるなんて。そんなこと、許されているのかい?
 千歳は小さく口を開いた。泣きそうな顔で、だけどはっきりとした笑みを浮かべている。その顔を見つめながら、こんな風に笑うんだ、と思った。明るくて真っ直ぐで、だけど時々とても深い場所を見つめている。
「俺も、思います。大事な人を殺して、自分の勝手で殺してしまって、それで今こうして生きていて、俺はずっと泣いていなくちゃいけないんじゃないかって」
 楽しいことなんて一つも知らないように、苦しいことしか知らないみたいに、痛みだけを抱えたままで。続けられる言葉に、千歳も思っていたんだな、と確認するように噛み締めていた。同じくらいに、それでも、と思っていた。それでも千歳、君は笑うことを止めないね?
「楽しいなんて思っちゃ駄目で、ずっと苦しんでいなくちゃ駄目なんじゃないかって。辛いことしか知らないみたいに、喜びなんか全部捨てていかなきゃいけないんじゃないかって」
 ぽろぽろと言葉が落ちる。それは俺がいつも抱えている疑問と同じだ。笑うことなんて、幸せだと思うことなんて、嬉しいと感じることなんて。それら全て、手にしてはならない。心を震わせることなんて、人殺しの俺には許されているのだろうかって。
「だけど、だけどねぇ、栄介さんが言ったんだ」
 きゅっと目尻を下げて、千歳は答える。俺の疑問に、俺の言葉で答えた。
「とてもよく似ているけど、だけど同じじゃないんだって、栄介さんが言ったんだ」
 再び出会った彼らは、何一つ覚えていなくて。会いたかった人は初めましてと笑って、何もないんだと痛いほど思い知らされた。俺たちが大事に抱えた日々も、気が狂いそうな後悔も、欠片だって持っていなかった。
「それなら、俺は悲しい顔をしていられないよ」
 ねぇだって、とてもよく似た別の人なら。俺の後悔は俺だけのもので、あいつらのものじゃないのなら。それなら、俺の苦しみに巻き込みたくはないんだ。真っ直ぐとした目をして、澄んだ瞳で、千歳が言う。俺の言葉を糧にして、自分自身の答えを出した千歳の言葉。
「それなら俺は、目一杯笑い合っていたいよ」
 後悔なんていつでもしている。ふと思い出した時、笑っていられる価値などないんだと思い知らされる。だけどそんなの、あいつらは関係ないでしょう? 泣きそうな顔をして、それなのにやけにきっぱりとした口調で言うから、つられるようにしてうなずいた。
 そうだね、千歳。確かにそれは俺が言ったことで、それならきっと千歳の言うことは間違っちゃいない。そうだね、千歳。
「俺の罪悪感と一緒に、泣いてくれってわけにはいかないね」
 自分自身に罰を下すのは簡単だけれど、たぶん。俺が笑うのを止めてしまえばきっと、心優しい彼らも同じように胸を痛めるのだろう。同じように痛ましい顔をして涙さえもこぼすだろう。そんなことは望んじゃない。
「それなら、許されなくたって笑っているよ」
 何度この胸に疑問がよみがえっても。時折ふっと思い出してはたまらない恐怖に襲われるとしても。あの笑顔をまた奪ってしまうくらいなら、そんなものは訳がない。君たちの笑顔を失くしてしまう方がよっぽど怖いんだって、そんなこととっくの昔に知っているから。