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Note No.6

小説置場

赤が散る

「遠い日のうた」

 君はきっと目を凝らしてしまうから。


「…栄介さん?」
 一瞬戸惑った空気を流したものの、すぐに口を開いた。慌てる素振りもなく、いたっていつも通りのような、不思議なことなどまるでないみたいな口調。だけどそれは、平静を装っているだけだと知っていた。平坦な口ぶりに隠されているのは、いぶかしむような空気。表に出そうとしないのは、奥底ではきちんと理解しているからだろう。
「どうしたの?」
「それは俺の台詞のような気がするんだけど」
 聞き返すと、笑いながらそんな言葉が返って来る。軽口のような響きに安堵しているのは、俺だけじゃないはずだ。いつものような顔をして、変哲のない顔を出来ている自分自身に、きっと君は安心している。
「何でいきなり目隠し?」
 悪戯っぽさを含んだ声で問われる。確かに、いきなり後ろから目を隠されたらそう思うだろうし尋ねるに違いない。だけれど千歳は俺の手を外そうとする素振りもなく、ただ単純にこの状況に疑問を呈している。
 いつも通りの、当たり前みたいな顔をして。俺の気まぐれに驚いているものの、それだけだって顔をして。だけど本当は、知っているんだろう。どうして俺がこんなことをしているのかって、一番千歳が知っている。
 だからこうして尋ねるのだ。いぶかしんでいるのは、どうして俺がこんなことをしているかじゃない。どうして俺が気づいたのかってこと。いつものような顔をして、軽口を叩いて有耶無耶に出来たらいいと望んでいるから。
 きっと俺は知らない振りをしてもいいのだろう。何でもないよ、と単純に思いついたからこうしたんだよって顔をしてやればいいのかもしれない。そしたら千歳は安心する。俺の嘘にはきっと気づくけど、それでも直接口に出されなければ、なかったことにしてしまえるだろう。
 本当はそっちの方がいいのかもしれない、と思った。知らない振りをしていれば、千歳は気に病むこともないはずだ。いつかこのことを過去に出来るようになる時まで、俺は見守っていればいいのかもしれない。だけど、こんなことを思った時点で答えなんかは決まっていた。
「まだ怖いんでしょう」
 ゆっくり吐き出した息と共に言葉を発すれば、小さく千歳の肩が強張った。ほんのわずかで、注意していなければわからなくいらい些細だった。だけれどそれだけで理解してしまう。微塵の疑いもなく、わかってしまう。
「思い出すんだね」
 千歳が拳を握った。返って来る言葉はなくても理解出来る。何の話をしているかだなんて、言わなくてもわかってしまった。俺と千歳にだけしか通じない、嘘みたいなつながりの一端。夢みたいな話で、冗談に紛れてしまいそうで、それでも確かにここにあった。他の誰もが知らなくても、俺たちだけは知っていた。嘘でもなくて、夢なんかじゃなくて、どこまでも本当なんだと知っていた。
 自分のものではないけれど、確かに自身に宿っていた、かけがえのない記憶たち。
「無理に見なくたっていいよ」
 確かに知っていた記憶が映し出すものがどんなものかなんて、説明する必要もない。大切で仕方なくて、宝物みたいに抱えていたくて、それら全てを自分自身で壊した。自分のこの手で大事な人の命を奪い、血だらけに染め上げた大切な場所。覚えていた。思い出す必要も無いくらいに強く、もしかしたら覚えているという言葉では生温いほど、全身に刻み込まれていた。血肉の全てに、細胞の一欠けらまで。
 最後まであの夜を生き残った千歳が何を見たのか、詳しいことはわからない。だけれど、時折漏らされる言葉の断片や、周囲へ向ける視線だとか、そういうものからおぼろげながらの推察は可能だった。そういうものが積み重なって、気づいたのだ。本当に些細な、気をつけていなければわからないことだったろう。だけど俺は、どんな小さなことだって全てを焼き付けていたかったから。
「怖いのなら、目を閉じてしまいなさい」
 最初はきっとこんな日だった。辺りを真っ赤に染め上げる、息を飲むほど美しい夕焼けの日だった。とろりとした夕陽が辺りに流し込まれていて、赤味を帯びたそれは、朱色というより真っ赤と言ってよかった。まるでそれは、と思った時千歳の横顔が暗いことに気づいた。
 具合でも悪いのかと、その時は思っただけだったのだけれど。接する機会が増えるにつれて、おや、と思うことが増えた。それは本当に些細なことでしかなくて、たとえば鳥居やポストに近づかないだとか、林檎や苺が苦手だとか、そういう本当に何でもないことだった。だけど、注意深く観察してみたら気づいてしまった。赤信号が苦手で、踏み切りの警報なんて特に駄目だ。夕焼けが近づくとそわそわしている。クリスマスもあまり好きじゃないね。駅前のパン屋に近づかなくなったのは、看板を塗り替えたからだ。ねえ、千歳、君は。
「赤い色が怖いのなら、無理をしないで」
 千歳が目にした風景を、俺は知らない。だけれど想像することは出来た。あの夜を最後まで生き延びた。全ての人間の死を見届けた。それならば、千歳の記憶の底にこびりついているのは恐らく、全ての人間の亡骸と、噴き出した鮮血なのだろう。部屋中が真っ赤に染まっていた。床板も襖も、天井さえもきっと。満月が皓々と照らし出したのは、まごうことなく血だらけの世界。真っ赤に染まった視界。
 君はきっとそれら全てから目をそらすことを許さない。だから、真っ赤に染め上げられたこの場所でも、前を向いて、しかと目を凝らそうとするのだろう。それなら俺は決めてしまったよ。いつか、大丈夫だと思えるその時までは俺が。
「見えないように、目を塞いでいてあげるから」