Note No.6

小説置場

まどろみのあわい

 ぱちり、とスイッチが切り替わったような感覚はいつもの通りだった。急速に思考の世界から引き戻されて、周囲に積まれた本の山と、斜めに差し込む日の光に気づいて我に返った。
「うわあ、千歳くんゴメン!」
 部屋の整理のために、二人で分担して本を片付けていた。最初はきちんとやっていたはずなんだけど、ついつい手にした本を開いたのがいけなかったんだと思う。一文を目にしたら次第に読み込んでしまって、気づいたらこの調子だ。千歳くんはやさしいから、そういう僕にも声をかけないままでいてくれるんだろうけど、一体どれくらい没頭していたんだろう。
 思いながら振り向くと、そこにあったのは千歳くんの苦笑いではなかった。仕方ないなぁ、みたいな顔をして、「まったく史哉さんは」って呆れるように言うんじゃないかと思ったけど、そうじゃなかった。
 ある程度片付けて空白になった部屋の片隅、壁にもたれて座っている千歳くんは、うつらうつらと船を漕いでいる。
「…千歳くん…?」
 恐る恐る声をかけてみた。だけど一切反応はなくて、閉じられた瞼はそのままだ。唇は結ばれていて、どんな言葉も飛び出しては来なかった。思わず目をしばたたかせて、目の前の光景を見つめてしまう。いつもきらきらとした笑顔を浮かべて、思いがけない出来事に誘ってくれる。些細な思い付きを面白おかしく仕立て上げて、誰より楽しそうにやり遂げる。ともすれば強引で、巻き込まれるようにして関わることになるけれど、決して嫌じゃなかった。絶対に一人じゃ体験出来ないことに誘ってくれるから、心待ちにしていたくらいだ。
 だからかもしれない。いつだって思い浮かぶのは、まっさらな笑顔だ。真面目な顔をしている時もあるし、喧嘩したり泣きそうになったりしているのも知っているけど、いつだって僕の頭に描かれるのは、喜怒哀楽のはっきりした千歳くんだ。
 こんな風に、無表情ともいえるような寝顔を見るのは初めてだった。
「…疲れちゃったのかな…」
 僕が本を読んでいる間、恐らく千歳くんは一人で仕事をしていたわけで。疲れて眠ってしまうのも致し方ないと思う。ああ、本当に悪いことをしちゃったな…一人に仕事をさせてしまうなんて。ひとしきり自分自身を苛んだけど、それで事態が改善するわけじゃない。こうなったら千歳くんの分まで、僕が頑張らないと。
「寝かせてあげたままでいいよね」
 自分自身に確認するように、言葉を落とした。一人で仕事をさせてしまった負い目もあるし、寒い季節じゃないからここで寝ていても風邪は引かないだろうし。それに、思い出したからだ。二人で作業をしながら世間話の一端として交わされた言葉の一つが、ゆっくりとよみがえってきたからだ。
(最近、寝不足なんですよ)
 特に大袈裟な意味を込めた風でもなく、笑い話に混ぜながら千歳くんは言っていたっけ。どうしたの、と尋ねたら夜更かしが過ぎるんですよね、なんて言っていた。何かと忙しい子だから、やることが多くて寝る時間が遅くなってしまうのかな、と思った。その後は話が別の方向へ流れて行ってしまったから、深い理由は聞かなかったけれど。寝不足だと言うし、しばらくこのまま寝かせてあげたらいいだろう。
 結論を出した僕は、今度こそ他のものへ気を取られないよう気をつけながら、部屋の整理に精を出していた。せめて千歳くんがやってくれた分くらいは仕事をしないと、と思いながらやっていたおかげか、さくさくと仕事は進む。8割方を終えた所で、これ以上は一人じゃ判断出来ないな、という答えに達する。となると、もうここが切り上げ時だろう。
 ちらりと背後へ目をやると、相変わらず千歳くんは眠ったままだ。目が覚める気配はなかったし、よほどぐっすり眠り込んでいるらしい。そんなに疲れていたのか、寝不足がひどかったんだろうか。あんまり夜更かししちゃ駄目だよって注意しないと。起こしてしまうのは気が引けるけど、いつまでもここに放っておくわけにはいかないし、仕方ない。そんなことを思いつつ、千歳くんへ近づいた。
 肩へ手をかけようとした所で、手が止まった。さっきまで表情もなく、ただ眠っているだけだった千歳くん。瞼を閉じて、唇を結んで、すぅすぅと寝息を立てていた。おだやかに、規則正しく。だけど今、目の前にいる千歳くんは、眉を寄せて唇を噛み締めて、ひどく苦しそうな顔をしていた。
「千歳くん」
 はっきりと名前を呼んだ。ほとんど反射的に、こちらへ呼び戻すみたいに名前を呼んだ。笑った顔ばっかり知っている。怒ったり、泣いたりしているのも知っているけど、嬉しそうな顔、してやったりって笑う顔、ガッツポーズで大喜びしている所、そういうものばっかり覚えている。こんな風に、辛そうな顔は知らない。眉間に皺を刻んで、何かを耐えるみたいに唇を噛んでいる。そうしていなければ叫び出してしまうみたいに、悲鳴をこらえるみたいに。
「千歳くん」
 肩を揺さぶる。わずかな振動だけで、千歳くんはうっすらと目を開けてほっとした。だけど、その目はまだはっきりしていなくて、どこか遠くを見ているみたいだった。唇が動いて、ぽとぽとと言葉が落ちた。うわ言にも似た言葉なのに、僕の耳は正しく音を拾い上げる。
「……ふみ……さ、ん…」
 ぼんやりしたまなざしのままで、それでも僕を見据えた目で、千歳くんは続ける。どうしてなのかわからない。一体どうしてそんな言葉が口をついて出てくるのか、わからないのに。
「…ごめん、なさい」
 零れ落ちた言葉の響きが、痛いほどに本当なんだと、何よりも告げていた。