Note No.6

小説置場

Euthanasia

 じわじわと、蝕まれてゆく。

 あの日の夢を見て、飛び起きた。一瞬自分がどこにいるのかわからなくなるけれど、すぐに見慣れた自分の部屋だということを理解する。どっどっ、と心臓の音が頭にこだましていた。いつの間にか息を止めていたらしく、苦しくなって呼吸を再開する。息を吸って、吐いて、また吸って、吐く。慣れた動作のはずが、ひどくぎこちなく感じる。俺は一体、いつもどうやって息をしていたんだろう。どうすれば滑らかな呼吸が出来るんだろう。
 体を起こしたままで、ぼんやりと部屋を見つめる。小さな明かりで、薄ぼんやりと照らされている。あの日からずっと変わらないままで、この部屋はここにある。何一つ変わらない。一つだって変わらない。この部屋で、何度も遊んだっけ。くだらない話をして、クラスの女の子の中だと誰が一番可愛いだとか、明日の体育はゲームをやるだろうかとか、本当に何でもない話をしていた。
 同じようにこの部屋はあるのに、一緒に話をした人間はいない。どこにもいない。この世界中を探したって、どこにもいやしないんだ。
 その事実を改めて認識する。胸が痛むような気もしたし、少し違う気もした。痛みよりももっと苦い、重苦しいものが溜まっていくみたいだ。だって俺は知っている。ここにはもういない人を、永遠に時を止めてしまった人のことを思い出した時、そこにあるのは単純な追悼ではないから。ただ悼むことを許されないと知っているから。
「――……」
 つぶやいたはずの名前は、上手く形にならない。小さい頃から一緒にいて、どんな時だって傍にいた。いつの頃からか道は別れて、それでもやり直す機会は何度だってあったはずだ。だけど結局そんなものは、今になって思うだけだ。今になって後悔するだけなのだ。あの時ああしていればよかっただとか、あんなこと言わなければよかっただとか。
 ああ、と声を落とす。心の中で、胸の内に、そっと。重く落ちていく言葉を聞きながら思い出すのは、あの日までのあれこれであり、今日までの多くのことだった。奪ったものは数え切れないほどあって、失くしたものも山のようにある。そして俺は、何一つ悲しんではならないのだ。痛みすらも見せてはいけないのだ。だって、俺の所為だから。俺があんなことを言わなければ、奪われなくて済んだものがあったんだ。
 誰も知らない。俺以外の人間は、一人も知らない。俺が抱えた、償いきれない罪の重さを知っているのは俺だけで、断罪出来るのも俺だけなら、ここで罰を与えるのは俺の仕事なのだろう。
 それからもう一度眠りにつこうとするものの、無理だということはわかっていた。起き出すわけにもいかず、ただ布団の中で朝を迎える。いつも通りの時刻に鳴った目覚まし時計を止めてから、いつものように居間へ降りる。母親へ挨拶をしてから朝食を食べていると弟が起きてきた。おはよう、と言えば寝ぼけ眼で挨拶が帰って来る。遅刻するなよ、と声をかけてから学校へ向かった。
 電車に揺られながら、あくびをかみ殺していた。近所からうちの高校へ通学している人間はほとんどいないから、誰とも顔を合わせなくていいのは有難かった。どんな顔をしていてもわからない。見られてしまう心配はないから。
 駅から降りて、学校までの道のりをゆっくりと歩いていく。ちらほらと見えるのは、自転車通学のうちの学校の生徒だろう。クラスメイトのほとんどが自転車通学だし、俺のような電車通学は珍しい部類に入るのだ。
「――蔦江先輩」
 すいっと通り越していった自転車が先の方で止まった。見れば、部活の後輩である幡中がこちらへ視線を向けている。礼儀正しい後輩だから、通り過ぎたことに気づいて立ち止まったのだろう。
「幡中、おはよう」
 足を速めつつ、止まったままの幡中へ声をかける。挨拶をしたんだからこれでいいだろう、と先へ進むような人間じゃないと知っているから。案の定、幡中は俺が前へ来たのを確認してから口を開いた。
「おはようございます。先輩、いつも歩きなんですか」
「そうだよ。電車通学だからね」
 駅からバス待つより、歩いた方がいいだろ? と続けると「そうですね」とうなずく。真剣な顔は、何だかとても重大なことを聞いたような雰囲気で、唇の端に笑みがこぼれる。まるで違ったタイプの後輩たち三人を思い出したからだ。
「俺はゆっくり歩いてくけど。幡中はいいのか?」
「ああ――まあ、特に急いでるわけではないので」
 単純に、早めの行動を心がけているからだろう。その点、同学年二人とはやはり違っていて面白いな、と思う。
「鞄入れます?」
 前カゴを示してそんなことを言うから、やんわりと首を降った。女の子にそんなことしてもらうほどヤワってことはないよ、と言えば。幡中がとても面白い冗談を聞いた、みたいな表情を浮かべる。
「鞄入れるくらい平気ですよ。それとも、そんなに重いモノでも入ってるんですか、先輩の鞄は」
「うん、ちょっと筋トレ的な意味で、鉄アレイとかね」
 悪戯っぽい光を宿した目に答えるように、冗談交じりで言葉を返す。幡中が楽しげに笑うので、安堵のようなものが胸に溢れた。だけれど同時に、重苦しい鉛でも飲み込んだような感覚に襲われる。
 俺はこんな風に、笑顔を向けてもらってはいけない。楽しいと思ってはいけない。こんな風に、大事なものや大切なものを、居心地のよさを感じてはいけないのに。俺はただ、じわじわとゆるやかに、終わりに向かっていかなければならないのに。