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Note No.6

小説置場

Sponge cake

 玄関の扉を開けると、甘い匂いに包まれた。「ただいま」と声をかけつつ、匂いの元である台所へ顔を出す。案の定、お兄ちゃんがオーブンの前で焼き具合を眺めていた。
「今日は何作ってるの?」
「おお、理代。帰ってたのか」
 玄関の開いた音には気づいていなかったらしい。「おかえり」とはにかむように笑ってから、「マドレーヌ」と答えてくれる。お兄ちゃんの作るお菓子はどれもハズレがない。何でも美味しいから、マドレーヌも楽しみだ。
「やった。丁度小腹が空いてた所」
「そんじゃ、出来上がる前に手洗って来い」
 ほら行け、と台所を追い出された。私は笑いながらリビングを通り、鞄を置いてから洗面所へ向かった。手洗いうがいしたら、即効で台所へ戻る。お兄ちゃんは呆れたような顔で、「そんなすぐは出来ねーぞ」とこぼす。
「わかってるけど。何かもう、匂いがあっちこっち漂ってるから、それだけでお腹空いちゃって」
 ここで一緒に待つ、と告げれば肩をすくめた。呆れているというか、仕方ないなぁ、という顔。だけど追い払うことはないと知っているので、そのまま居座ることにする。オーブンの中では、着々とマドレーヌが焼き上がっているようだ。
 マドレーヌには何が合うだろうか、紅茶か、それとも牛乳か。真剣に本日のおやつを吟味していたら、お兄ちゃんがぼそりとつぶやく。
「目がマジすぎる」
 理解出来ない、という顔をしているので「何言ってんの」と返した。甘いものを前にしたら真剣になるに決まってるじゃない、と続けたらにやにやとした笑みで答えた。
「そんなに甘いもんばっか食ってると太るぞー。デブまっしぐら」
 豚だ、豚、と節をつけて歌うように言うので、頭をはたいた。体重を気にするトシゴロの乙女に向かって、そういうことを言うなというのに。お兄ちゃんは大袈裟に顔をしかめて、「いってー!」とわめく。
「この馬鹿力。加減をしろ、加減を」
「知りませーん。乙女に向かってそういうことを言う方が悪いのよ」
「え、どこに乙女がいんの?」
 真顔で言うからもう一度頭をはたく。すっぱーん、とものすごくいい音がした。
「理代…お前…本当に力強くなってねーか…」
 いっそ感心するような顔で言われたけど、肩をすくめるだけにしておいた。トシゴロの女の子としては、筋力が増したなんてこと確かめなくてもいいのだ。
「つーか、お前、制服着替えねーの」
「うわ、今気づいたの。遅いよ」
 さっきからずっとこのままなんですけど、と言えば「妹の服装になんぞ興味はない」ときっぱり言い切られた。そりゃ、興味あっても怖いんだけど。
「出来上がったら即効で食べたいからいいの。お兄ちゃんがつまみ食いする前にね!」
 力強く言えば、お兄ちゃんは「作ったの俺なんだけど」と笑った。何なんだお前はって感じで何でもない顔をしているけど、もしかしたらわかっているのかもしれない。確かにここで、出来上がりを一番に食べたいというのは嘘じゃないんだけど、でもそれだけじゃないってこと。
「半分以上は私が食べるんだから、私のものでもあるのよ」
「無茶苦茶な」
 大きな身振りで顔を覆い、「何という妹だ…」とわざとらしく嘆いている。芝居がかった動作は無視して、オーブンへ視線を向けた。いい具合に狐色になっているみたいだし、本当に出来上がりは近そうだ。
 お兄ちゃんも伸び上がるようにしてオーブンを見ている。少し屈んだ状態の私とほとんど同じ視線。我が家は大体において、お兄ちゃんが使えるようにと全てのものが少し低い場所にあるのだ。それくらい当然だし、うちにはお祖母ちゃんもいるので、バリアフリーで丁度いい。
「天板出すのはよろしくなー」
「了解」
 いたって普通の顔で言うから、いつもの温度で答えを返す。自分で出来ないわけじゃないんだけど、焼き上がった後の熱い天板を触るのはやっぱり遠慮したいらしいことはわかっていた。だからこうして、いつ出来てもいいように待っているのだ。焼きあがったクッキーを取り出そうとして床にぶちまけてしまって、車椅子の上からじゃ拾うことも出来ずにショックを受けて以来。
「それにしても、どんだけ作ったのお兄ちゃん」
「あー…結構作った。ちっちゃいヤツだし、オーブンでかいし」
 家の中で過ごすことが多くなったお兄ちゃんは、どういうわけかお菓子作りに目覚めたのだ。それまではサッカー部でグラウンドを走り回っていたのが、嘘だったみたいに突然。二度と走れないし、普通に歩くことも難しいと診断された時、どんな気持ちだったのかはわからない。だけど、それ以来決めてしまった。お兄ちゃんが望むことなら何だってやる。お兄ちゃんがやりたいことは、全部私が叶えてあげる。
 というわけで、この大きいオーブンもお年玉を溜めて贈った誕生日プレゼントだったりする。まあ、お祖母ちゃんの援助込みだけど。それ以来、お兄ちゃんはせっせとお菓子作りに励んでは、私のおやつを提供してくれる。
「それに、理代部活に持ってくだろ」
 後輩分も作っといた、と当たり前の顔で言う。お兄ちゃんは私を見上げて、「俺のお菓子は中々評判が良いだろう?」なんて言ってくる。自分で言ってたら世話ないわ、と答えるけど、実際嘘ではなかった。
「まあねー。藤ちゃんとか、余ったら家に持って帰ろうって虎視眈々と狙ってるし。真穂ちゃん、あんまり甘いもの食べないけど美味しいって言うし」
「そうか、そうか。美少女が俺の作ったものを食ってると思うと気分いいな…!」
「何かその言い方嫌なんだけど」
 私の後輩が汚れる! と言ってもお兄ちゃんは動じない。お前の後輩は俺の後輩でもあるんだ、と真剣な顔をして言い切った。どういう理屈だ、と思うんだけど。でも結局私は、お兄ちゃんが笑ってくれるなら何だってよくなってしまうのだ。