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Note No.6

小説置場

Somewhere over the rainbow

 川向うに沈んでいく夕日を眺めている。静かに揺れる草の音を聞きながら、朱色に染まる世界をただ目に映していた。俺の体も、この色に染め上げられているのだろう。いつかと同じように、世界に終わりを告げる太陽で、俺も、周囲の何もかもも、ただ一色に染まっている。その事実はいくら年月を経ても変わることはない。体は随分でかくなった。あの頃はバイクにだって乗れやしなかったのだ。今では自分の好きな所へ、いつだって行くことが出来る。あの頃の俺が願って止まなかったことが、今の俺には出来る。何もかもを捨てて、俺のことを誰も知らない場所にだって行ける。
 あの頃。まだガキだった俺は、一人で街をさまよいながら、ただひたすら「どこかへ行きたい」と願っていた。ここでなければどこでもよかった。ここではないどこかへ行きたいと、ずっと願っていた。あの頃と同じ色に染まりながら、あの頃の自分自身の願いを思い返して、唇に笑みが浮かぶ。きっとあの頃の俺は信じない。ひょろい体で、目つきの悪いガキだった俺は、きっと「馬鹿じゃねぇの」と吐き捨てるだろう。それでも、言ってやりたかった。悪態を吐くだろう俺に、目いっぱい面白がって教えてやりたいことが、山ほどある。きっとお前は、信じやしないだろうけど。
「――芦刈先輩」
 飛び込んだ声に振り向けば、そこには見慣れた顔がある。わずかに茶色がかった髪は無造作に揺れ、ここまで走ってきたのか息が荒い。下がり気味の眉に苦笑いをしてから、ぐしゃりと頭をかきまぜた。
「そんなに走ってこなくていいんだぜ。置いて行きやしねぇよ」
 心からの言葉だったが、言われた当人である古関は「でも」とうつむいた。
「芦刈先輩を待たせたくなくて……」
 それは古関の、心底からの気持ちなのだろう。俺を待たせているとわかっているから、のんびり歩いているなんてことは出来なかった。古関とはそういうヤツだった。いつだって他人のことを気遣い、人の心を慮って生きてきた。
「そもそもは、あいつらが買い出し前に思い出さねぇのが悪い」
 きっぱり言い切り、ビニール袋を揺らして一歩踏み出せば、古関も後についてきた。曖昧な笑みを浮かべて。困っているような、だけれどどこか楽しそうな風情を漂わせている。俺はその笑みをちらりと確認し、言葉を継ぐ。
「『鍋にはゴマダレじゃないと嫌だ!』なんつーのはただのワガママだ。なければないなりに食うぞ」
「……ええと、でも、そっちがいいなら、まだ戻れるしいいかなぁって、思って……」
 今日は、暇な連中が集まって鍋をすることになった。買い出しが俺と古関なのはスーパーに行き慣れているからだ。事前に必要なものを書き出し、全てを買い揃えて帰る途中で連絡が来た。何かと思えば事前には言っていなかったゴマダレを追加したいと喚いていた。こんなものは無視すればいいと俺は思ったのだが、そこは古関だ。「ちょっと戻って買ってきます」と、走り出してしまった。
「でも、あの、先輩を待たせてすみません」
 体を縮こまらせて謝る古関。「先に帰ってて下さい」と言ったんだから、勝手に待っていたのは俺だ。「待っててやるよ」と、古関が持っていた荷物を奪い取ったのは俺だ。だから、お前が謝ることなんて一つもないのに。
「……別に、気にしてねぇよ」
 ぽつりとつぶやけば、古関はふわりと笑った。安心しきった顔で、あまりにもやわらかく笑うもんだから、思わず言葉がこぼれていた。
「懐かしかったしな」
 落ちた言葉を、古関はきちんと拾い上げる。「なつかしい?」と不思議そうに目をまたたかせる様子に、端々まで朱色に染まる姿に、俺の唇はすんなりと言葉を紡いだ。
「ガキの頃、よくこの辺で時間つぶしてた。あの頃は、店に長居も出来なかったからな」
 俺の言葉に、古関は泣き笑いのような表情を浮かべた。それは憐れみに似ていたが、違うのだと知っている。これは、この表情は、同じ痛みを抱えながらそれでもここまで生きてきたことへの、切ないほどの讃歌なのだ。
「……おれも、よく公園にいました。道から見えないように、ジャングルジムの端っことかに」
 つぶやかれるのは、慰めや励ましの言葉ではない。ただ、同じ時間を共有したものの、あの頃に抱えた痛みや重さの破片だった。
 あの頃の俺は知る由もない。まさかこんな日が来るなんて。こんな人間と出会うなんて。こんな感情を抱くなんて。
「それで、ぼんやり夕日とか見てたから――ほんとだ、懐かしいですね」
 目を細めた古関は、さっきの俺と同じように、川向うへ視線を向けた。溶けるような夕日。何もかもを染め上げ、全てを一色に塗りつぶす。やがて夜を連れてくる、あざやかな朱色。その色に、一体何を思っているのか。尋ねれば古関は答えるのだろう。だけれど、きっとそんな必要はない。
 あの頃、こんな風に夕日を眺めていた俺は、きっと信じやしないだろう。言葉にすることもなく、当たり前のように、同じものを抱えているのだと確信しきってしまうだなんて。考え方も性格も、まるで違う。それでも、誰よりも近い所にいる。
「……先輩たち、待ってるでしょうか」
 ふと漏らされたつぶやきは不安げで、そういえば随分遅くなってしまったな、と思っているらしい。まあ、あいつらなんぞいくら待たせておいても問題はないだろうが。
「――うるせぇだろうな」
 腹を空かせたあの面子のことだ、やかましくはなるだろう。古関は「それじゃあ早く帰らないと」みたいな顔をしていて、思わず苦笑いが浮かぶ。そんなに気にすることじゃないと言っても、古関のことだ。どうしたって気にしてしまうだろう。それなら。
「少し急ぐか」
 短く声をかければ、神妙な顔でうなずく。心持ち速い足取りで帰り道を辿りながら、俺は思わずにいられない。
「どこかへ行きたい」と願っていた。ここからいなくなりたいと思っていた俺に言ってやりたい。信じなくても、馬鹿にされるとしても。あの頃の、クソ生意気な俺に伝えてやりたい。「どこかへ行きたい」という願いは、もう叶えなくていい。俺の居場所はもう、決まっていたのだと悟る日が来る。「どこか」が一体どこなのか、俺はもう知っている。きっと、ずっと前から決まっていたのだ。同じ色に染められて、同じ夕日を目に映していた。誰よりも強く、やわらかな心を抱えていたたった一人。その隣にいればいい。俺のいるべき場所はここだった。俺の「どこか」は、ずっと前からこいつの隣だったのだ。