Note No.6

小説置場

Starduster---backstage

 細くて小さな体で、身を切るように歌う姿を見ている。

 昇は注意深く音を聞きながら、音量のつまみに指をかけている。ステージに立つ人間のために、音源を流すのが主な仕事ではあるが、歌の最中に滞りなくステージが進むよう、常に気を配るのも昇の仕事だった。
 特に今は、全神経を集中させていると言ってもいい。元のバージョンからして、静かに流れていく曲だということもある。サビにかけて音が収束して行き、最終的にアカペラになる歌だからということもある。音源をそのまま使用しても構わないのだが、細心の注意を払って手動でも音量調節することになったのだ。だから、一つも音を聞き漏らすまいとしているのだが、それだけではなかった。
 目の前で、ステージに凛として立つ少年を見つめている。一つ年下の彼は、昇よりも背が低い。いつもおどおどしていて、頼りなかった。クラスの中でも目立たない人間で、すれ違ったとしてもそれにすら気づかないだろう。
 関わり合いになるはずなどなかったのだ。都合がよかったからという理由だけで、昔なじみが彼らの場所に出入りしていたのは知っている。阿呆らしいとは思ったが、口を出すのも面倒だったから放っておいた。新しい玩具を見つけたなら飽きるまで遊んでいればいいと思っていたし、いずれその通りになるのだと予想していた。
 それが今やどうだろう。全ての神経を集中させて、呼吸一つすら漏らすまいと、ただひたすらに視線を注ぐ。単純な理由だ。曲の様子や構成など、問題ではない。歌っているのが彼だからだ。他の誰でもない、たった一人の人間だから、視線一つそらさずにただ見つめている。理由は一つ、それきり。それ以外には理由なんてなかった。
 目立たない人間だった。弱々しくて、空気に溶けて消えてしまいそうだった。一人で事態を打開することも出来ない、脆弱な人間だと思っていた。それはきっと、あの日まで。
 じっと前を見据えていた昇は、つまみをゆっくりと回した。音が消えていく。空間に残るのは、たった一人。彼の声だけが、いずれこの場所に響く。何よりも、誰よりも心地のいい声。全てを許して満たす。祈るような言葉が、ゆっくりと輝いている。
 静寂に満たされた場所に、息を吸う音が響いた。次の瞬間、さらわれるほど力強い声が放たれる。一つだって聞き漏らすものか。呼吸の音も、筋肉の揺らぎも、体を脈打つ鼓動でさえも。彼の全て、逃さずに受け止める。
 彼はひたすらに、声を紡ぐ。喘ぐように息を吸い、切なる願いを歌に乗せる。昇はただじっと前を見ている。神々しいまでの横顔を見ている。
 いてもいなくても構わない存在だった。たとえ野垂れ死んでいようとも、昇の人生には何の関係もなかったはずだったのだ。弱くて一人では生きて行けない、もろい生物に用はなかった。ただ搾取して、良いように使うだけの価値しかないと思っていた。
 透き通った声が届く。眉を寄せて苦しそうに歌うのは、何よりも知っているからだ。この歌の意味を、身に迫って知っているからだ。視線をそらさないままで、昇は声にならない声をかける。
 もしもお前が望むなら。お前がほしいというなら、いくらだってやる。俺がいくらだって、お前にやるから。
 目の前の彼は、愛を乞う。ひたすらに願い、手を伸ばす愛を、その手に渡してやりたかった。ほしいというなら、何をしたってよかった。自分の出来る精一杯で、出来なくてもそれでもどうにかする。願うことを、手を伸ばすことを封じ込めて、それでも凛と立っているのだと知っている。我が侭一つ言わず、主張もしないで、耐えて受け入れてきたんだと知っている。そんな彼がやっと、願いを口に出すのなら。ほしいのだと言うのなら、いくらだって、いくらだってやるのに。
 何でもない人間だと思っていた。力に怯えて屈することしか出来ない、弱い人間だと思っていた。己の力にひれ伏すしか能のない、踏みつけても構わない人間。ただ踏み台にするだけの、次の瞬間には忘れ去ってしまうような。
 ゆっくりとつまみを戻す。音は空間に広がり、それでも彼の輝きは保たれたままだ。まぶしくて、目も開けていられない。声がやさしく降ってくる。満たされるようだ、と思いながら昇は声を聞く。
 ただ全てを受け止めてきたんだと知った。自分自身の身勝手さを、強さだと思っていたものの正体を、いとも容易く彼は暴いたのだ。弱い人間ではなかった。自分には真似出来ないほど、強く誇り高い人間だった。自分を律し、考えることを放棄せず、痛みを受け入れて昇華し、背筋を伸ばして生きている。
 境遇に甘えることもせず、力に屈するのでもなく、言い訳をして全てを手離すこともしない。彼はいつでも戦っていた。暴力で全てを破壊してしまえば楽だったのに。困難で険しい道のりを、彼はずっと歩いていたのだと知ってしまった。あまりにも気が遠くなる道を、自分は放棄してしまったのに。簡単な道に流れてそれでいいと言い聞かせてきたのに。それが楽だと知っていたのに、彼は決して選ばなかった。あの日、突きつけられた言葉の痛みをずっとずっと覚えている。
 息を吐く横顔を見つめる。最後の音まで、きちんと聞き届けよう。あの場所で、呼吸を紡ぐ彼の音を全て聞いていよう。誰より強くて誰よりやさしい、あの声を。
 そうしてここまで戻ってきたら、持てる全てでやさしくしてやる。頭を撫でて、よくやったと笑ってやる。好き勝手に生きることもせず、もがいて苦しみながらたった一人で戦ってきたあいつへ。やさしさしかわからないように、笑ってやる。