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Note No.6

小説置場

明日天気になあれ

 泣かないで、私の太陽。


 頭を撫でると熱い体温が伝わってくる。いつものぬくもりとはまるで違う、強さを持った熱の塊。まるで、と私は思う。まるで体に炎を抱えているようだ。ずっと触れていれば火傷してしまいそう。暴力的なまでの命の燃焼。私にはどうすることも出来ない。代わりになってやることも、苦しみの原因を取り除くことも出来ない。私はいつだって、馬鹿みたいに祈っていることしか出来なかった。
「……おねえちゃん……」
 熱い息と共に漏らされた言葉に、慌てて手を離した。潤んだ目をした陽菜が、真っ直ぐとこちらを見ていた。
「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
 胸元に手を置いて、二度、三度と叩く。とろんとした目をしたまま、陽菜はゆるく首を振った。続けて「だいじょうぶ」と言葉を吐き出すけれど、呼吸に混じるようなそれは酷く弱々しい。
「もう少し眠っていて。後でお粥を持ってくるから、薬を飲んで、もう一眠りしたらすぐに良くなります」
 だから寝ていて平気、と告げる。陽菜はうなずいたようなので、首元まで布団を引き上げた。温かくして眠っていないと。今回の風邪はいつものように、季節の変り目にひくものだから、熱が出て二日もすれば下がってしまう。それは私も、もちろん陽菜乃もわかっている。
 きっと眠ってしまったのだろう、と思っていた。ほうと一息を吐いて、陽菜の部屋を見渡す。あてがわれた八畳間には、机と箪笥、本棚が置いてあるだけで、物は少ない。陽菜はあまり物をねだらない子だった。あれが欲しいだとか、駄々をこねられた記憶はほとんどない。私が大きくなったら、と思う。自由なお金を稼げるようになったら、欲しいものは何でも買ってあげたいのに、陽菜はきっと何も要らない、と言うだろう。
「おねえちゃん」
 ぼんやり考え事をしていたら、布団の中からくぐもった声がした。いつの間にか、陽菜は頭の上まで引き上げていて、顔は見えない。てっきり眠っていると思ったのに。「どうしたの」と尋ねた。何か用事があるのだろうと、枕元の水差しに手を伸ばしたのだけれど。
「ごめんなさい」
 布団の中に埋もれるような陽菜から紡がれた言葉に、動きが止まる。どうして「ごめんなさい」なんて言葉が出てくるのか、まるでわからなかったから。
「寝込んでばかりで、ごめんなさい」
 おねえちゃんに迷惑ばっかりかけて、すぐに風邪引いちゃって、ごめんなさい。続く言葉に息を飲んでいたのだけれど、すぐに我に返る。そんなことを思っていたなんて、知らなかった。
 ゆっくりと口を開く。出来るだけ丁寧に、嘘偽りなく思っているのだと、きちんと伝わるように願いながら。
「陽菜が悪いことなんて何にもないですよ。風邪を引いたり寝込んだりするのを、迷惑だなんて思ったことはないもの」
 心配ではあるけれど、迷惑だなんてことあるはずがない。元気でいてほしいと願ってはいるし、極力寝込まないでいてほしいと望むのは、風邪を引くことを鬱陶しがっている、というのとはイコールにならない。陽菜は「でも…」と言葉を濁す。
「おかあさんは、悲しそうな顔をしていたよ」
 泣きそうな声だった。もしかしたら涙をこぼしているのかもしれない。陽菜の頭がある辺りに手を乗せ、ゆっくりと動かした。母のことを思い出しながら。
 母はよく言っていた。私と陽菜を前にして、「二人は私の太陽なのよ」と静かな笑みを浮かべて言っていた。だから、どうか笑っていて、と。涙で太陽を曇らせないで、と。
「笑っていられない私に、悲しい顔だった」
 決して顔を見せない陽菜は泣いているのかもしれない。笑っていてと、涙を見せないでと、そう願った母の言葉を思い出して、守れない自分自身を許せないのかもしれない。私は大きく深呼吸をしてから、口を開いた。
「それはね、明日は笑顔になっていてほしいな、ということです」
 今日は笑っていられなくても、明日になったら笑顔になっていてくれたらいいなぁっていうことなの、と告げる。だから笑っていられない日があっても、謝らなくていいの。陽菜が謝ることなんて、何にもないんだから。ゆっくりそう言えば、陽菜はちょこんと顔をのぞかせて、「ほんとう…?」と尋ねる。
「本当です。だから心配しないでいいんですよ」
 目元を赤く染めた陽菜に笑いかけると、まだぎこちなさは残っているものの、うなずいてくれた。それを確認してから、「お粥を持って来ますね」と陽菜の枕元から離れる。「すぐに戻ってくるから」と言い添えて。
 障子を開いて、板張りの廊下に出る。お勝手までの道のりを歩きながら、さっきの陽菜乃の言葉を思い出している。笑っていられないことを気に病んでいた陽菜。母の願いを敏感に受け取っていた陽菜。
 母はよく言っていた。私が泣き出すと、自分自身も泣きそうな顔をしながら「泣かないで、私の太陽」と。「晴乃が泣いていると、私も泣いてしまうわ」と言って、私よりよっぽど痛そうな顔をしていた。だから私はすぐに泣き止んで、母を慰めるようにしていたのだけれど。
 お勝手に入り、頼んでおいたお粥を受け取る。女中さんたちとは顔見知りだし、陽菜も可愛がってもらっているので、「お大事にね」という言葉をいただく。お礼を言ってから、元来た道を戻る。
 母はとてもやさしい人で、同じくらいに弱い人だったのだと、今なら思う。己の心の拠り所を、自分ではなく他人に求めることしか出来ないのだ。「私の太陽」と言って、自分の笑顔の理由さえも預けてしまう。涙の意味も、苦しみの原因さえも全て。それはやさしさから来るものではあったのだと思うし、悪気があったのではないと理解しているのだけれど。
 陽菜の言葉は真実を射ているだろう。母は、笑っていられない私たちに悲しみと苦しみを見出しても、明日の笑顔の訳を見つけることはなかったから。同じように苦しんで泣いてくれるけど、それだけだから。
 それなら私が伝えると決めた。たった一人の私の家族に、泣いてもいいんだと、泣き止む必要なんてないのだと、伝えるのは私の役目なのだ。敵だらけの場所で味方になってくれるたった一人の可愛い妹なのだから。
「あら、晴乃じゃない」
 角を曲がると向こうから来る人間に声をかけられた。この家の長女で、前妻の娘、私の異母姉に当たる。強い響きをしていて、盆に載っている小さな釜で大体を理解したらしい。
「陽菜ったらまた寝込んでるの? ほんっと使えないわね」
 馬鹿に仕切った顔で、本当に金食い虫だわ、と吐き捨てる。自信に満ちた顔で、他人を虐げるのに慣れきった風情だ。
「晴乃も晴乃で、頭も悪いし政治の話もわからないし。闇討ちくらいしか出来ない能力なんて野蛮すぎて嫌になるわ。あんたたちってほんっと楢崎家に相応しくない姉妹よね」
 さっさとどっかで野垂れ死ねばいいんだわ、と10年近く変わらない言葉を並べ立てる。いつもなら聞き逃しているけれど、陽菜のことを悪く言われて黙っている訳がない。私、証拠の残らない闇討ちとか大得意ですし、と告げてから、飛びきりの笑顔で答える。
「夜道には気をつけてくださいね、お姉さま」