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Note No.6

小説置場

月下美人

「終末の砂時計」


 影となり、月となり、寄り添って生きるでしょう。


 出会いはほんの気まぐれでした。きっかけは、母に連れられて通い始めた礼儀作法の教室です。(思えば、いずれ楢崎の家に迎え入れられる日に向けた準備だったのでしょう)理由を理解するには幼く、必要性を感じていたわけではありません。ただ、教室に漂う品の良い空気を好ましく思っていたことを覚えています。取り立てて反抗する必要もなかったので、私は従順に教室へ通っていました。
 礼儀作法の教室は、閑静な住宅街にたたずむ日本家屋にありました。恐らく、代々楢崎とも関わりのある、由緒正しい家柄なのだと思います。いつものように教室を終えた私は、広い庭を通って家へ帰る所でした。(この頃には母の送り迎えはなくなり、一人で通っていました)
 敷地内に別の建物があることは知っていました。時々音が聞こえていることも、誰かがいることも。ほんの気まぐれだったのです。いつも通る石畳の道をふいと逸れて、その建物をのぞきこんだのは。
 床に近い場所にある小窓から、中を見ました。確か六月頃のこと、紫陽花の陰に隠れていたことを思い出します。私がのぞきこんだのは、小さな道場でした。中には、凛と背筋を伸ばして立つ一人の女性。道着に袴を着付けて立っていました。礼儀作法の先生にも通じる、律された空気を感じました。私はぼんやりと、何かの礼儀作法だろうか、と思いながら女性を見ていたのです。彼女は突如動き出しました。体を動かす。ただそれだけのことなのに、いつも自分自身が何の他意もなく行っていることなのに、それは不思議な風景でした。
 指先一つ、髪の毛の先まで、意識下に置いているような。体中のパーツ全てに明確な意志を宿しているような。違うのだと、わかりました。私が普段行っているものとは次元の違う動きがそこにありました。
 女性は、ふわり、と跳躍しました。空気に乗るような、まるで重力から解き放たれたような動きでした。そう、人はきっと飛べるのだと、恐らくこの時私は知ったのです。重さ一つ感じさせず、指の先まで伸ばしきって空を飛ぶ姿に、幼い私が心奪われたのも当然のことでしょう。くるり、と一回転して着地した瞬間でさえ軽やかだったのです。風のように鳥のように、この世界の重力から解き放たれる。その姿に胸が高鳴り、私もこんな風に飛んでみたいと強く思ったのです。
 それからは簡単でした。母に理由を話せば、同じ敷地内で武道の修練を行っていることを知りました。やってみたいと申し出れば、母は案外あっさりと了承してくれました。活発とは言い難い私だったので、武道に親しむことで溌剌としていくことを願ったようです。体を鍛えることも、自分の身を自分で守れるようになることも大きかったのかもしれません。
 これが私と、瑩明湖月流ひいては師匠との出会いです。

「…何思い出し笑いをしている?」
 道場で向かい合わせになった師匠は、不機嫌そうな顔でそう言いました。特に機嫌が悪いわけではなく、単純に愛想がないのだということを知るまでは、何か粗相をしてしまったろうか、と戦々恐々していました。今はそんなこともありません。
「いえ。お世話になり出したころのことを思い出していて」
 師匠は私の言葉に、片方の眉を上げました。今さらどうしてそんなことを思い出しているのだろう、という顔です。単純に疑問に思っているだけで、責めているわけではありません。
「最後の日には、最初の日を思い出すこともあるのだと思います」
 私の言葉に、師匠は短く「ああ…」とこぼしました。溜め息と一緒に落ちた言葉。真っ直ぐと伸びた背筋は変えずに、視線だけを落としました。あちらこちらへ動くけれど、その動き方にも迷いがないように見えて、師匠らしい、と思います。
「お前みたいなお嬢さんが、こんなに長く続くとは思っていなかった」
 きっぱりと告げられます。師匠は淡々とした調子で、当時のことを話しました。武道の修練をしたいと言う子どもがいること、それが礼儀作法を習いに来ている家の子であること、いざ顔を合わせてみたら大人しそうな少女だったこと。
「――大っぴらに喧伝している流派ではない。誰でも受け入れる、ということはしていない。身元のはっきりしない人間は門前払い、見込みのなさそうな人間には表面だけを教える」
 元を辿れば忍に連なる流派なのだと聞いています。力に任せて敵を倒すのではなく、一つの武芸を極めるのではなく。影に潜み、夜闇に乗じ、そうして敵を翻弄し、現れたことに気づく頃には地に伏している。瑩明湖月流とはそういう流派でした。
「楢崎家とは懇意にしているから、身許は確かだった。おっとりとして受け答えもはっきりしないお嬢さんには向いていないと思っていたが――、これは嬉しい誤算だった」
 肩をすくめると、呆れたように師匠が笑いました。厳しい顔が一気にゆるんで、華やいでいくようでした。気難しい人ではないし、恐ろしくもありません。内から湧き出る強さゆえ、誤解され易いだけなのです。笑うとこんなに胸がいっぱいになるのに。花が咲き誇るようなのに。
「お前の身体能力は持って生まれたもので、さらに磨きをかけた。元来、大人しくはあるし活発ではないものの、体を動かすことが好きだったのも幸いした。しなやかな筋肉に、敏感に気配を察知する能力、素早く動きを見定める目、どれを取っても瑩明湖月流に相応しい」
 闇のように影のように、夜のように。自分自身の痕跡を残さず、音も立てずに忍び寄り、声一つなく敵を倒す。思いの外、私にはこの流派が合っていたのです。だからこそ、のめり込むように鍛錬を行い、自身の能力を上げていくことに没頭していました。そうして。
「晴乃。お前なら一人でもやって行ける。あちらでも、慢心せず鍛錬に励め」
 きっぱりと言い放たれて、深く礼をしました。幼い頃にこの道場へ入門し、毎日のように汗をかき、怪我を作り、痛みも辛さも抱えながら過ごしてきました。そんな日々も今日で終わりです。明日から私は、離島にある高校へ向かうのです。
 そのための挨拶でした。師匠もそんなことは充分に承知しています。よほどのことがない限り、3年間島を出ることは許されません。もしかしたら今生の別れになる可能性もあります。それでも、師匠は別れの言葉を言わないでしょう。
「晴乃」
「はい」
 何度も呼ばれた名前です。明日からはこの声を聞くこともなくなるのです。道場の床板の色も、天窓から差し込む光と影の濃さも、ワックスの匂いも、何もかも全て。遠いものになって行きます。師匠は、真っ直ぐと目を見据えて言いました。薄らと笑みを乗せて。
「楢崎の家は、辛いかい」
 思わず目を瞬かせてしまったのは、今まで一度も家のことを言われたことがなかったからです。世間話はいくつもしましたが、家についての話など聞いたことがありません。師匠は私の胸の内など見透かしているでしょう。
「瑩明湖月流は影の流派だ。決して表に出ることはない。私たちは、闇となり、夜となり、月になる。光の対となる定めだ」
 それはきっと、私にとても相応しいのでしょう。決して表舞台に立つこともなく、ただ陰に隠れて生きている身の上です。本家の人間としてではなく、日陰者として生きることには、とっくに慣れてしまっています。
「だから晴乃、間違えるんじゃないよ」
 何を、と問おうとしました。けれど師匠はそれを遮ると、笑みを浮かべて言います。焼け尽くすような力を持った、ただ圧倒的な笑みで。
「自分自身の光は、お前だけが決められるんだ」