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Note No.6

小説置場

呼ぶ声は遠く

 一人、また一人と鼓動を止めていく。私の心臓が止まる時間も、確実に近づいているのだろう。かろうじてまだ拍動を刻んでいるのは、体力だけはある人間だったことと、怪我の度合いが比較的軽かったからだろう。
「……楢崎大尉…」
「どうしましたか」
 吐息のような言葉に答えれば、ほっとしたように表情を緩めた。ここで生きている人間はもう私と彼しかいなかった。学校を卒業してからしばらくは、後方支援部隊にいたと言う。機械の扱いに長けていて、今年の春に前線部隊に異動したばかり。前線への配属は二度目だと言う。まだ不慣れなもので何かと迷惑をおかけすると思いますが、何卒よろしくお願いします、と頭を下げる真面目な人間だった。給料の使い道を雑談していた時、家族に楽をさせてやりたいのだと言っていた。やさしい人間で、やさしい家族のいる人だ。出来れば、と思う。出来ることなら、ちゃんと生きて帰してあげたかった。彼を待つ人の所へ、ちゃんとした形で。
 楢崎大尉、と彼が呼ぶ。どうしましたか、と答えれば薄らと口元に笑みが浮かんだようだった。彼は何も答えない。私も黙っている。風が駆け抜けて前髪を揺らしていく。呼吸の間隔が長くなっていく。
 彼は何度も名前を呼んだ。確かめるように、まだ私がここにいることを確認するように。その度に返事をしていると、何度目かになって「ありがとうございます」と言われる。はっきりとした声だった。
「お礼を言われるようなことはしていませんよ」
 そう答えると、「いえ」と短く否定する。「生きていてくれるからです」
 彼はぽつぽつと言葉を吐き出した。吐息のような声で、呼吸の合間に絞り出すようにして。ただ黙って聞いている。やさしい声で語られる、やさしい言葉たちを。
「俺は。きっとひとりで、死ぬんだと、思っていました」
 軍人として生きると決めた時から、死ぬことを想像していた。いざ入隊した時はより一層死を身近に感じた。最悪の事態を想定しておこうと、一人で惨めに死んで行くのだと自分自身に言い聞かせていた。前線に配属されることで、それはいっそう確信になった。穏やかな死など用意されているはずがない。一人で寂しく死んで行くのが当たり前の場所だった。
「だけど、俺はひとりじゃ、なかった」
 ありがとうございます、と彼は言う。一人で死ぬのが怖かった。仕方ないと言い聞かせても、納得したふりをしていても。だから今この時が一人じゃなくてよかった。本当によかった。
「だから、ありがとう、ございます」
 名前を呼んでばかりで、迷惑だったでしょう。息も絶え絶えに言われるので、「いいんですよ」と答えた。迷惑なんて思うはずがなかった。いてくれてよかったと、そう思ってくれる人に迷惑なんて思うはずがなかった。
「ちゃんとここで見ています。だから安心してくださいね」
 私の言葉に彼はうっすらと笑った。苦痛のない穏やかな笑みのように見えて、それなら良いと心から思う。ここで死んでいく彼が、物言わぬ亡骸となった彼女や彼が、わずかでも安らいでいてくれたら。日常の切れ端を取り戻してくれていたら、そうだったらいい。
 段々と意識が霞んでゆく。それでもどうにか奮い立たせていれば、いつの間にか彼は名前を呼ばなくなっていた。それが意味することを理解出来ないはずがない。はっきりと認識すれば、その瞬間意識の混濁に拍車がかかる。張り詰めていたものが切れたのだと感じる。
 理由はなかった。明確な目的があったわけではなかったのだけれど、最期を看取る必要があると思ったのだ。だから最期まで意識を保って、見送ってきたのだけれど。もう、もういいだろうか。
 ぐらぐらと視界が揺れている。上手く像を結ばなくて、目を閉じた。何も見えないはずだった。だけれど、何も映さない瞼の裏側では見たいものが見えるらしい。都合がよくても、有難いことに変わりはない。
(どうしましょう、頼人くん)
 呼びかける人が誰なのかなんて、もうとっくに決まっていた。間違えることもなく、ただ真っ直ぐと向かっていく。どうしましょう、頼人くん。
(私はとても幸せで仕方ないのです)
 死にたいわけではなかった。もっと生きていたかった。頼人くんの隣で、ずっと長い時間を過ごしていたかった。それは本当で、嘘なんて一つもない。それでも、今心に浮かぶ気持ちにも偽り一つなかった。
(遠い場所で、何も知らない場所で、こんな風に一人で死んでいくのに)
 それでも確信していた。今のこの状況が幸せでないわけがないと、わかっていた。意地が悪い話だ。自分勝手な結論でしかないし、酷い人間だと自分でも思う。だけど、知っていた。わかっていた。満ちていた。
(しあわせで、どうしましょう)
 ねえだって頼人くん。答えなんて簡単なんですよ。きっと頼人くんはずるいなぁ、と笑うと思います。本当に私はずるいんです。だけど、嘘は吐かないでいたいのです。我がままだと思いますが、これが本当です。だって頼人くん。私、置いていってしまうじゃないですか。
 あなたを置いて死ぬ、ということが意味するのは一つ。私は絶対に置いていかれない、ということ。
(私はぜったいに、頼人くんを失わなくていいんですから)
 きっと頼人くんは呆れたように笑うけれど。それでも心から思っているのです。わがままで、自分勝手で、とても意地悪な話だとしても。永遠に頼人くんを失わなくていいのなら。失う痛みを知らずにいられるのなら。
(それはなんてしあわせな話でしょう)