Note No.6

小説置場

静かの海

 寄せては返す波の音。さわさわと吹き抜ける風。波打ち際を歩く二つの人影を、月明かりが照らしている。浜辺に落ちた青い影が、静かに動いていく。波の音と風の音だけがしている。
 会話はなかったが、構わなかった。言葉はこの場所に必要なかった。ただここで同じ空気を共有していれば、同じ場所で鼓動を刻んでいれば、それだけでよかった。
 ざざん、と静かに波が打ち寄せてくる。浜辺を歩く人影の片方――黒い髪をなびかせた女性は、そっと視線を動かす。きらきらとした淡い光を弾いて返す海を見つめて、そっと足を動かした。一歩、海の方へと踏み出す。ざざん、と足にあたった波は白い飛沫と共に崩れる。
「晴乃」
 海へと入っていく女性へ声をかけたのは、もう一人の人影だった。こちらは短髪の男性だ。晴乃と呼ばれた女性は、立ち止まって振り返った。月明かりの下で、静かな笑みを浮かべている。
「頼人くんも入ってみませんか」
「俺はスニーカーだから無理です」
 おどけるような言葉に、軽い笑い声が答えた。「だからサンダルにしましょうって言ったのに」という言葉は不満を訴えているようではあったが、本気でそう思っているわけではないことは一目瞭然だった。
「ってことは、最初から入るつもりだったわけか」
 出る時からサンダルにしようって言ってたから。短髪の男性――頼人の言葉に、晴乃はわずかに肩をすくめた。
「特別入ろう! と決意してたわけじゃないですよ。サンダルにしたのは何となく、です」
 足首まで海の中に漬かりながら、晴乃は続けた。でも、何となくのつもりだっただけかもしれません。言って見上げる先にあるのは大きな月だ。満月は明るく、外灯の少ないこの場所では随分強い光に見えた。
「もしかしたら、最初から海に入るつもりだったのかもしれません」
 言って、もう一歩沖合いへと足を踏み出した。ざざん、ざざん。その姿を見つめていた頼人はぼんやりと思っている。月明かりに照らされた海の中へ入っていく晴乃。ただの気まぐれでサンダルにしただけで深い意味はなかったと言う。だけど、海へ進んで行く晴乃の姿のなんと自然なことか。最初からこうであることが自然であるように。ここでこうすることが、ずっと前から決められていたように。まるで導かれていくように。
 スカートが濡れることも構わないで、晴乃は前へと進んでいく。海の方へ。沖の方へ。足のつかない場所まで、光も差さない海の底まで、陸地から離れたどこか遠い場所まで。迷うことなく前を見つめて、そうして行ってしまう。
「晴乃」
 思わず名前を呼んでいた。深い意味はなかった。ほとんど反射的に、口から言葉がついて出て行った。あまりにも自然で、こうすることが決められていたようなその後ろ姿に、呼ばれている、と思ったからだ。この満月の明かりに、海の遠くから響く波音に。呼ばれている。こちらへおいでと、ここまでおいでと言うように。
「晴乃」
 もう一度ゆっくりと名前を口にする。もしも呼ばれているというなら。俺の知らない場所からここへおいでと言われているなら。何度だって俺が名前を呼んでやろう。そうして呼び返してやろう。そんなに遠い場所に行かないで、たった一人でしかいられない場所になんかいないでって。
「頼人くん」
 立ち止まった晴乃は振り返り、頼人の名前を呼んだ。真っ直ぐと頼人を見つめて、どこまでも透明な笑顔を浮かべている。
「すみません。ちょっと入りすぎてしまいました」
 辺りを見渡して、我に帰った顔で照れ笑いを浮かべてから、波の間を浜辺へと戻って来る。濡れてしまったスカートの裾をつまんだまま。それでも、足を洗うくらいの位置で立ち止まった。
「気持ちがいいですよ、頼人くん」
 頼人くんもどうですか、と誘われて口ごもっていたら、しんとしたまなざしを向けられていることに気づく。ざざん、ざざん、と波の音。吹き渡る風の音が、遠くでしている。
「帰って来ますよ」
 脈絡なく漏らされた言葉だ。今までの会話をまるで無視していて、何を言っているのかわからないと言ってよかった。いきなりどうしたんだと、聞いてもよかった。だけれど頼人はそうしなかった。
「どこへ行っても、必ず。頼人くんが呼んでくれるなら」
 何を、と言わなくてよかった。一体何の話をしてるかだなんて、聞かなくてよかった。頼人には充分わかっていた。晴乃の言葉が何を指すのかも、晴乃が頼人の心の内を正しく読み取ったことも、全て。
「帰る場所は一つですからね」
 当たり前のように漏らされた言葉だった。至極当然のことを語る口ぶりに、頼人は大きく息を吐いた。きっとわかっているのだろう。晴乃も、そして頼人自身も。
「――俺も、待ってるだけは性に合わないんだよな」
 ぐしゃぐしゃと頭を掻いてから、スニーカーの紐をほどく。晴乃は面白そうな声で「さすがは頼人くん」などと言っている。
「乗せられてる気がするんだけど」
「気のせいですよ。嫌だなぁ頼人くん、疑い深くなっちゃって」
 軽い声を聞きながら靴を脱ぐ。ズボンの裾をまくった頼人は、さくさくと砂浜を歩いた。揺れる波間に進んでいくと、冷たい海水が忍び寄ってくる。ゆるゆると足を濡らし、砂をさらいながら海へ戻って行く。追いかけるように入った。
「つめたっ。さすがにまだ早いか」
「足だけなら気持ちいいじゃないですか」
 ざばざばと進み、晴乃の隣にやって来る。晴乃はきらきらした笑みを浮かべていて、どことなく浮き足立っているようにさえ見えた。俺が隣にいるからだと思っていいだろうか、と頼人は思う。それを聞いてしまうのは簡単だったが、聞くまでもない質問だ。答えなんて決まっている。
「やっぱり一人より二人の方が楽しいですよね」
 落ち着いた声だった。月明かりのような静けさを持って、それでいて奥深くには言いようもないほどの熱さを秘めている。それが晴乃という人間だと、頼人はよく知っていた。
「そうだな。一緒の方が楽しいよ」
 二人はよく知っていた。自分たちの住む世界と置かれた状況は、よく似ているようで決定的に違うものだと。近い場所にいるけれど決して交じり合うことはない世界で生きている。定められた宿命であり、自身で選んだ道だった。時折近い場所まで接近することは出来るのに、絶対的に触れ合えない。絶望的なまでの隔たりを、二人はよく知っている。そうだとしても。
「一緒にいるのが一番いいな」
 決して重ならない世界で生きているのなら、時々こうして傍を歩こう。触れ合うことは出来なくても、同じ場所で同じように鼓動を刻んでいけたなら。こうして同じ景色を見ていられるなら。それだけで世界は一つになるのだと、二人はよく知っていた。