読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Note No.6

小説置場

夜明かしの友よ

「終末の砂時計」

 喉の渇きを覚えた紀和子は、部屋を抜け出して居間へと向かった。なるべく音を立てないよう廊下を歩いたのは、誰もが寝静まる時間帯であることを理解していたからだ。気がつけば深夜になっていることは多々あるので驚きはなかったが、既に眠りの世界に突入しているであろう同居人たちを起こすことはしたくない。単純にバレたら後が面倒だという理由が大半だったけれど、紀和子なりの配慮もないわけではなかった。
「……あら」
 共用部分の廊下を通り、居間へ到着した紀和子は小さく口を開けてつぶやいた。しかし、その顔には微塵の驚愕も浮かんでいない。一応、驚いた素振りはしたものの、漏れる明かりを目にした時点で予想はついていたのだ。
「あやめも起きてたのね」
「ワコさんこそ」
 居間のテーブルでマグカップを手にしていたのは、3年間同じ寮で過ごしているあやめだった。眼鏡の奥の目には共犯者めいた笑みが浮かんでいる。紀和子はキッチンに向かい、自分のマグカップに買い置きのティーパックを入れて、湯を注いだ。そのまま、自然な動作であやめの前の椅子に座る。
「喉渇いちゃってさー。そういえば何も飲んでなかった」
「わたしもよ。夕食の時に飲んだ水が最後ね」
 淡々と相槌を打てば、あやめもうなずき返す。恐らくあやめも、ふと集中力が途切れて喉の渇きを覚え、こうして居間までやって来たのだろう、と紀和子は考える。自分と同じように、集中すれば深夜まで作業を行う人間である、ということはこの3年間で熟知していた。
「いやー、バレたら絶対よりりんに怒られるよね」
 困った、と言いつつもあやめの顔には満面の笑みが浮かんでいた。完全に面白がっているのは、今年の春に入ったばかりの新入生の言動が楽しくてならないからだろう。紀和子は抽出の済んだティーパックを引き上げて、一つ息を吐いた。
「だから静かに出て来たんじゃない。この時間まで起きてたことがわかったら、頼人のことだもの。お説教されちゃうわ」
 夜更かししていたことを知ると、頼人は朝食の支度をしながら「早く寝ないと健康に良くないですよ」とか何とか言うのが常なのだ。大概において聞き流してはいるが、朝から説教されるのは気分のいいものではない。
「よりりんは『夜は早く寝て下さいって言ったじゃないですか。朝起きられないなんて自業自得ですからね!』とか言いつつ、起こしてくれるよね」
 にやにや、と人の悪い笑みを浮かべたあやめは言う。その様子が簡単に想像出来たので、紀和子も似たような笑みを浮かべた。何だかんだ言いながら無駄に面倒見のいい新入生なので、起きてこない二人にやきもきして結局どうにか起床させようとするだろう。
「はれのんは気にしてくれるけど、起こすまでしてくれなさそうだよねー」
「そうね。晴乃はあれで線引きがはっきりしているから」
 もう一人の新入生を思い浮かべて、二人は口々に感想を漏らす。大人しくておしとやかなお嬢様に見えるけれど、何でも自分で出来るため、自己責任で大概のことは片付けるのだ。遅刻しちゃいますねぇ、とかのんびり言いながらも「でも起きて来ないなら仕方ないですよね」とでも言ってにこやかに微笑む姿が頭に浮かぶ。
「善は完全に無視だし。いやもう、うちの後輩は面白いなぁ」
 心底うきうきとした調子で、あやめは言葉を漏らした。嘘偽りなく、あやめが言っていることくらい、紀和子には簡単にわかった。本音を冗談に紛れ込ませることが天才的に上手い人間であるけれど、3年間の共同生活は伊達ではない。軽口めいているものの、同じ寮に住む後輩たちを本気で面白いと思っているのだ。
「三者三様っていうか、性格ばらばらで楽しいよねぇ」
 大きくうなずきながらあやめは言う。私ともワコさんとも違ってて、本当に飽きないよ、と。紀和子は紅茶を飲みながらその顔を見つめ、静かに言葉を返す。
「でも、頼人と晴乃は随分真っ当よね」
 それはあやめへの意見というより、ほとんどただの感想と言ってよかった。共同生活を営むにつれ、次第に人となりを理解していく。その過程でただ漠然と感じたことがあり、思わず口に出していたのだ。
「似ているわけじゃないけれど、たぶん向いている方向は同じ気がするわ」
 ただの感想でしかない言葉だった。しかし、それを聞くあやめは目をぱちくりさせていて、それからじわじわと笑みを浮かべていく。心底楽しくてたまらないといった、心踊るような笑みだった。
「さっすがワコさん!」
 爆発するような笑い声を立てた後、あやめはきっぱりと言った。私も思うよ。たぶんね、はれのんとよりりんは、全然似てないけど根っこの部分はおんなじじゃないかって、私も思うよ。
 そう告げるあやめの表情はひどく穏やかで、紀和子は理解する。本当に心から思っていて、何よりもそれはあやめにとって某かの尊さを持つ言葉なのだ、と。今口にしているのは、あやめの心のどこかひどくやわらかい部分に触れている。
「例えばの話。終わりの日が来た時、うちの班員どうするかなーって考えるんだよね」
 そしたら、よりりんとはれのんは大体おんなじ方向になるよ。肩をすくめたあやめの言葉に、紀和子も頭の中でそれぞれの行動を予測してみる。授業で行われるシミュレートと違い、確定的要素は皆無と言ってよかった。与えられる情報は感情的で、客観性などどこにもない。それでも、頭の中で導き出される答えはひどくすんなりと、紀和子の心に落ちた。
「そうね」
 心から、心の底から紀和子は答える。同意の言葉を口にすると、あやめは嬉しそうな顔でうなずいた。そうでしょう、と何よりも瞳が告げている。ワコさんならそう言うと、思ってたよ。
「私とかワコさんはさ、やっと終わりが来たなぁってちょっと喜んじゃうよね」
 困ったような顔でもなければ、申し訳なさも宿していない顔で、あやめは告げる。紀和子は静かにうなずいた。終わりの日を考えた時、きっとわたしはそうするだろうと思ったのだ。生きていることが辛いわけではないし、やりたいこともたくさんあって悔いも多く残るだろう。それでも、今日で何もかもが終わりなのだと知ったなら。きっと自分は終わりを喜んで迎え入れる。重い体を脱ぎ捨てて、人間であることを止められるのだと知っているから。
「私もねー、痛いのとか苦しいのは嫌なんだけど、でも何かこう、どんな風に終わるのかなぁってちょっと興味が」
 死にたいわけではなかった。生きたいと思っていた。それでも、やがて訪れる終わりが今なのだと知ったなら、二度とは訪れない最期の瞬間をつぶさに観察しようとするだろう。決して触れることの出来なかった終わりの瞬間を、これほど間近で感じられることはないと知っているゆえに。
「善はすんなり受け入れるわね」
 頭の中に浮かんだ善は、悪あがきすることもなく淡々と終わりの全てを受け入れる。高揚することもなければ悲嘆に暮れることもなく、ただありのままの事象として終わりを享受するだろう。あやめは紀和子の言葉に大きくうなずいた。
「善ならそうすると思う。ワコさんと私も、たぶんそれはそれであっさり受け入れるし」
 だけど、とあやめは言う。だけど、よりりんとはれのんは、きっと絶対認めないよね。静かな口調で告げられた言葉だけれど、それを口にするあやめは何だかまぶしそうな顔をしていた。「そうね」と同意する紀和子も、恐らく似たような表情を浮かべていただろう。
「はれのんは徹底的に戦うよ。『終わらせません』って言って、絶対諦めないで戦うよね」
 晴乃はきっと最期まで戦うのだろうな、と紀和子も思う。おしとやかな大和撫子に見えるくせに、彼女ほど諦めの悪い人間はいないのかもしれない。いつだって、どんな時だって、彼女は必ず立ち向かって戦いを挑むのだ。
「よりりんは逃げるよねー。どうにか回避しようとして、徹底的に逃げる」
 頼人のことだ、何だかんだと理屈をつけたり些細な隙を突いたりして、どうにか終わりを遠ざけようと画策するのだろう。一分一秒でもその瞬間を後にするべく、奔走する姿が目に浮かぶ。
「ベクトル違う感じだけどさ。でも二人とも、絶対受け入れないよね」
 私もワコさんも善も、いざその瞬間が来たら受け入れちゃうと思うけど。でも、あの二人はきっとそうしない。きっぱりと告げられた言葉は強い。それはあやめが理解しているからだ。戦うにしても逃げるにしても、当然なのだと受け取るのではなく、悪あがきしようとすることの意味を、その行動を選び取ることの得難さを。
「私には出来ないなぁ」
 しみじみとした風情で漏らされた言葉に、紀和子が「わたしもよ」と答える。優劣の問題ではなく、ただ単純に違うのだと二人は理解していた。そうしてそれは、決して自分が手にはしないであろう選択だということも。
「そういう指針は必要だ」
 きっぱりとあやめは言い放つ。どんな感情の欠片もなく、ただ純然たる事実を口にしたような言葉だった。紀和子はただ静かにその言葉を聞いている。言うべきことを、恐らく理解していたがゆえに。
「悪足掻きの出来る人間が必要なんだ」
 これから先を生きていくために。生き残って進んでいくために。声にはならない声を、紀和子はしかと受け取っていた。ここで生きていくとはそういうことで、多くの戦闘技術や戦略を学ぶということはつまり、死なずに生き残るためなのだ。
 優秀と言われる自分たちであるけれど、欠けているものがあるとすれば恐らくは悪足掻きの出来ないことにあるのだろうと、紀和子もあやめも理解していた。だからこそあの二人がこの班に配属になったのかは定かではないのだけれど、理由の一端ではあるのかもしれない。
「だからさ、面白いよね」
 満面の笑みを浮かべたあやめは言う。良くも悪くも諦めがいいのが自分たちである、という自覚は重々あるからこそ、心から思っているのだろう。拘泥せずにあっさりと受け入れてしまう自分たちと、諦めの悪い二人の新入生。
「どっちに転ぶかわかんないけど、結構大博打だよねー」
 のんびりした調子で、「良い方に感化されたらいいけど、悪い方に影響されたらどうしようもないじゃん」と続ける。紀和子はその言葉に、くすりと笑みを刻んだ。
「人工島に隔離して学校を建てて生徒を教育しようっていうだけで、充分博打だもの」
 それくらい軽いんじゃない? と告げれば、あやめは心底楽しそうに「それはそうだ」とうなずいた。