Note No.6

小説置場

まるくおちゆく、


 こんなにきれいなものを、ぼくはほかにしらないのです。


 ぼろぼろ、と零れていく。端から盛り上がって、まあるく落ちてゆく雫を僕は眺めています。目尻を赤く染めて、小刻みに呼吸を繰り返しながら、頬をゆるやかに流れてゆく雫を見つめているのです。
 どんな言葉をかけたらいいのか、迷っていたということもあります。だけれどそれよりも、流れてゆく雫があんまり透明で、あんまりきらきらしていたものだから見惚れてしまっていたのです。
「…れ、」
 唇から紡がれる声はやわらかです。まぶしくなるような笑顔はないけれど、ゆるやかにぽとりと落とされた言葉の響きのやわらかさ! 滑り落ちるその雫と相まって、なんて綺麗なのでしょう。
「…お、れは、…いや、だ、よ…」
 苦しそうな呼吸の中、はっきりと口に出される言葉を僕は聞いています。きらきらと、流れていく雫に見惚れながらその声を聞いています。やわらかでやさしくて、儚げでだけれど力強い。心地の良い声を聞いています。
 ひっく、としゃくりあげる彼にどんな言葉をかけたらいいのでしょう。こんなに美しいものを、内側からぽろぽろと零れ落としてゆく彼にどんな言葉をかけたら、僕の言葉は届くのでしょう。
 僕は、彼に見せてあげられるような綺麗なものなど持っていないのに。彼がそうしてくれたように、きらきらしたまぶしいものや抱きかかえていたくなるような大切なものを、僕は与えてあげられないのに。
 こんなに綺麗なものでいっぱいの彼にあげられるものなんて、僕の手には何もないのに。
「…、ごめ、」
 手のひらで目元をぬぐって、零れ落ちる雫を払おうするけれど、後から後からとめどなく流れてゆくそれを止めることなど出来はしません。だってそれは、彼の中のたくさんの美しいものが、綺麗なものが、世界中のやさしいものが、結晶になった証なのですから。
 だから、泣かないで、とは言いません。
 綺麗なものを身の内に溜めすぎた彼にとっては、そうやって落としてゆくことがきっと必要なのでしょう。澄んでいて、痛々しいほど美しいものが集まっている彼なのです。
 あんまり綺麗過ぎるから、外に出してしまわないといけないのでしょう。だってきっと彼が生きていくには、彼の周りは煩雑で余計なもので溢れているのです。上手くバランスを保てなくなるもの仕方がありません。
 ぽろぽろ、と零れ落ちてゆく透明な雫。丸くころころと、頬を伝って落ちてゆきます。胸を痛めている彼を思うと僕の胸も締めつけられますが、それでもどこかで――この雫の美しさに目を見張っています。
 たとえば海の底でひっそりと育まれた真珠のような、輝き。たとえば生まれて初めて雨となった一滴のような、純粋さ。そういう諸々を全て包んで、きっとあの雫は存在しているのです。だってそれほど、美しい。僕はこんなに美しいものを他には知りません。
 世界に一つだけしかない財宝も、黄金で作られた装飾品も、大粒の宝石も、彼の雫には敵わないでしょう。どれもみな霞んで見えるに違いありません。どんなに貴重でも、どんなにきらきらしていても、どんなに価値があるとしても。彼の前ではそんなもの、何の意味も持たないのです。
「そのだ」
 かける言葉を持たない僕は、名前を呼ぶことしか出来ません。彼は僕の声に、顔をあげます。濡れた瞳がきらきらしていて、しっとりとした睫毛が黒い瞳をやさしく縁取っています。
「そのだ」
 もう一度呼ぶと、彼は瞬きをしました。ぽろり、と睫毛にひっかかっていた雫が頬を滑り落ちてゆきます。
 黒い瞳に見つめられて、もともとかける言葉を持っていなかった僕はもう、唇を結ぶしかありません。言葉も何もかも、澄んだ瞳に奪われてしまいます。やっぱり僕は、彼にあげられる綺麗なものなど持っていないのです。
 それなのに、それなのに、そうやって、あなたは。
「…なるしま」
 やわらかく僕の名前を呼んで、笑うのです。謝るように恥ずかしがるように、目を伏せてそれでもあたたかく笑うのです。ああ、僕はどうしたらいいのでしょう。僕は一体あなたに、何をしてあげられるのでしょう。
「お前が泣くのは、いやだよ」
 つややかな瞳によぎる、一瞬の光。見逃すことの出来ないほど、強く瞬く閃光。あなたはそんな風に、力強く、触れれば壊れてしまいそうな繊細さでもって、それでいて凛と言うのです。
 僕の名前を呼んで、僕のために、あなたは泣くのです。
「やさしい人が、泣くのは、いや、だな」
 だから、なるしまがなくのはいやだよ。紡がれる言葉、零れ落ちてゆく涙。僕に一体何が出来ると言うのでしょう。こんなにきれいなものを、僕は他に知らないのです。何ひとつだって知らないのです。
 だから僕は、あなたの名前を呼ぶことしか出来ないのです。何も持たないこの腕で、あなたを抱きしめてあなたの名前を紡ぐことしか、僕にはできっこないのです。世界中で何よりも美しい雫が零れてゆくのを、ただ見つめていることしか出来ません。
 あなたの涙を止める術など持ち合わせてなどいませんし、何より美しいそれに心を奪われているのです。あなたが泣くのは辛いけれど、僕はこんなにきれいなものを他には知りません。
 やさしい人が泣くのは嫌だと泣く、誰よりやさしいあなた。まるく落ちてゆく、あなたの頬を伝う涙。あなた以上にきれいなものなど、僕は一つだって知らないのです。

 


せかいでいちばんきれいな、ひと。