Note No.6

小説置場

身を知る雨


 大事な人なんて要らなかった。
 大切なものなんて欲しくなかった。


 それまでずっとシンプルに生きていたつもりだったし、これからもそうしていくんだろうと思っていた。余計なものなんて何も持たないで、何も望まず何も願わず、そうして生きていくんだと思っていた。
 だからきっとこれは、天変地異に近い。だって、君が泣いている。
「…ねぇ、」
 声をかけるとびくり、と肩を震わせてこっちを見た。真っ黒の目が濡れてつやつやと光っている。きれいだな、と思う。触ってみたい。きっと気持ちいい。
「なんで、泣いてるの」
 ひく、と息を飲む気配が伝わる。そんなに怯えなくていいのに、と思う。それとも君は、泣くことさえも自分に許してこなかったんだろうか。笑っていることしか許されないと思い込んできたんだろうか。だとしたらとんだ大馬鹿だと思うよ。
「いじめられた?」
 何か頭の悪いことを誰かに言われたのだろうか、と思う。君の心はきっととてもやわらかいから、馬鹿のすることで簡単に傷ついてしまう。その弱さを、蔑むつもりは毛頭ないのだけれど。
「…なら、ちょっと殴ってくるよ」
「え、ちょ、とおやま」
 わずかに舌足らずな声とともに袖を引っ張られた。赤い鼻をして、潤んだ目をして、こっちを見ている。慌てているみたいだ。
「とおやまが言うと、冗談に聞こえない」
「え、俺嘘は吐かないよ…?」
 言った時にはすでにやる気だなんて、そんなのわからない君じゃないでしょう。案の定、君は掴む力を強くした。
「いい、いいよ、遠山。平気だから」
 その様子は全然大丈夫じゃないと思ったけれど、君はきっと誰かを殴っても喜ばない。何より、報復した所で笑えるような君じゃない。だから立ち止まってうなずいた。
 ごしごし、と目をこすってどうにか涙を振り払おうとする君の様子をぼんやり眺めている。ああ、本当に、天変地異って起こるんだな、と思いながら。
「…ごめん、遠山。変なとこ見せて」
「…変なとこ?」
 思わず聞き返すと、君は恥ずかしそうにうなずいた。泣き顔を見られたことを言っているのだと理解するのに、数秒かかる。そんなことこれっぽっちも思わなかったから、うまく言葉がつながらなかった。
「…園田は、変なことを言うね…?」
 やっと意味を理解して、つぶやく。君は不思議そうな、呆気に取られたような顔をする。
「変って。何か、遠山に言われたくないんだけど」
 まだ涙の残る顔で、それでもほほえみの兆しを浮かべて言うから、天変地異の名残を感じている。シンプルに生きていくつもりだったのに。願うことも祈ることも、大事な人も大切なものも、みんな要らなかったはずなのに。
「…園田が泣いていると、」
 天変地異はある日突然起きたのだ。あの夜、何もかもを手離していたはずのこの手は、君につながっていたのだと知った。要らないはずだったし必要なかったし欲しくなかったはずなのに、既にこの手は持っていたのだと、あの夜やっと知った。それを教えた君が泣いているなら。
「俺はこんなにやさしい人間だったんだなって、思うよ…?」
 だって君が泣いていると、胸の奥がざわざわする。落ち着かない気分になって、どうしたらいいかなと思う。何もかもどうでもよかったはずなのに、どうやらあの夜作り変えられてしまったらしい。
「泣かないでほしいって、思うんだって、はじめて知ったよ…」
 何もかもどうでもよかったはずなのに。君が泣くなら、涙の理由を取り除きたい。笑っていてくれたらいいと願うよ。誰かにいじめられたなら殴り飛ばしに行ってあげる。君が喜ぶならそれくらい訳ない。そんな風に思う自分を、初めて知ったんだ。
「だから、泣いて…?」
 こらえないで、好きなだけ泣いて。笑顔にしたいと思うけど、君が泣けば泣くほど、俺は自分のやさしい気持ちを知るんだ。この中にある、新しい気持ちをいくつも知るんだ。君がいると、いくつだって俺は新しい自分に出会うよ。
「変なとこだなんて、思わないでいいよ…」
 君が泣く姿を見たいわけじゃない。だけど、こらえられずに涙をこぼすというのなら、溢れるままでいてほしい。無理やり押し込めて、上手に笑わなくていい。
「はじめて、だよ」
 俺の言葉を聞く君は、真剣な目をしている。そうやって、俺さえ知らない自分自身を、君はいとも容易く拾い上げる。その真っ直ぐなまなざしで、強い瞳で。俺さえ見つけられない俺を、君は掬ってしまうんだ。
「俺を、やさしいと思えたのは」
 君が泣かないでいてくれたらいいと、君の涙で初めて知った。君の笑顔を望む自分を、君の涙を見てはじめて知った。自分がそんな気持ちを抱えているだなんて、まだ忘れていなかったなんて、まだ残っていたなんて。君が泣くから知ったんだ。
 くすり、と君が笑う。その微笑みは小さくて、だけどとても気持ちがいい。胸の奥がじんわりとして、やっぱり俺はこれも知らない。
「遠山は、やさしいよ」
 ぐすり、と鼻を鳴らしているけれど。瞳は未だに濡れそぼっているけれど。君はやわらかく、はっきりと言う。
「変だし、ちゃっかりしてるし、変わってるし、いいトコばっか持ってくし、意味わかんないけど」
 だけど、遠山。君が呼ぶ自分の名前が、こんなに深い響きをしているなんて。君の声で呼ばれる名前が、こんなにやさしいだなんて、初めてだったんだ。
「遠山は、やさしいんだって、知ってたよ」
 お前よりはやく、俺はちゃんと知ってたよ、なんて。誇らしげに、嬉しそうに言う君を見ている。ああ、やっぱり、天変地異は起こるのだ。世界なんて簡単に壊れて、新しく生まれ変わる。だって俺はこんなに容易く作り変えられてしまった。君の言葉で、君の声で、君のまなざしで、俺は変わってしまったよ。
 だって大事な人も大切なものも、この手にはあるんだって、もうわかっている。

 

(君の雨で、自分の姿を知るのです)