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Note No.6

小説置場

夕映

 目の前のプリントにだけ集中して、ひたすら数式を解いていた。仁羽達樹はシャーペンを動かす手を止めない。真っ白だった問題用紙は、次々と展開されていく数字で埋まって行った。
 いつもならば、放課後は真っ先に家へ帰るか図書室へ行くかが達樹の行動である。放課後の教室などうるさくてかなわないし、意味のない話を延々繰り広げるクラスメイトたちの声など、聞きたくもない。だけれど、今日ばかりは仕方なく夕暮れの教室で問題を解いている。
 基礎問題を軽々とこなし、応用問題へと視線を移す。滑らかに動いていた手が一瞬止まるが、すぐに再開した。さらさらと数式が増えていき、淀みない様子は機械のようでもある。しかし、二つ目の応用問題を解いていた達樹は、ふと手を止めて視線を動かした。代入の数字を間違えたことに気がついたのだ。
 机の上に置いておいたはずの消しゴムが見当たらない。ペンケースの中も探ってみるものの、そこにも姿はなかった。恐らく――、気がつかない内に落ちてしまったのだろう。達樹は一つ舌打ちをした。床を探せば見つかるだろうが、今のいいリズムを崩したくない。席から立ち上がって、消しゴムを探している内に、あやふやな閃きを消してしまうかもしれない。それは避けたかった。
 仕方ない、と息を吐く。誤った数字を塗りつぶし、正しい数字を書き込んで再び計算へと戻った。
 本来ならば、と達樹は思っている。機械的に計算を続ける頭の一部で、本来ならばこんな場所で宿題をやる必要はなかったのだ、と苛立っている。
 社会科の授業で出された課題のため、放課後は情報室へ行くつもりだった。インターネットにつないで調べ物を済ませる予定だったのだ。もちろん家にもパソコンはあるし、ネットへつなぐことも可能だ。しかし、居間のパソコンで作業をしていると家族たちの目が面倒だった。覗き込んで何をしているかをいちいち聞かれるのも、内容についての解説を求められるのもうっとうしい。それなら、学校で済ませてしまうのが得策だと考えていた。
 情報室の開放時間までは、図書室で時間をつぶそうと計画していた。騒がしい人間もおらず、わずらわしさもなく快適に過ごせる。そこで数学の宿題を片付けてしまえば効率もいい。そう思っていたのだが、放課後の図書室は緊急の蔵書点検のため、閉鎖されることとなってしまったのだ。
 それならば今日は家に帰るべきか、とも考えた。しかし、情報室の開放日は週に二度しかない。次の開放日では課題の締め切りが来てしまう。最終的に、達樹は放課後の教室で開放時間を待つことにしたのだ。
 もっとも、自分の決断を達樹は後悔していた。授業中ならまだある程度大人しくすることも出来るというのに、放課後となってもはもはや無法地帯。部活に入っている人間は早々に部活へ赴いているが、そうではない人間たちがどうでもいい話を、大声で繰り広げている。
 一枚目のプリントを終えた達樹は、視線を動かして辺りを見渡した。
 傾いた太陽の光が差し込み始める教室内。残っている人間はそう多くないが、数人の固まりが教室のあちこちに散らばっている。女子のグループが数人、何かを囲んでひそひそと話し込んでいる。廊下にいる生徒と立ち話している人間もいた。中央では、大所帯の男子グループが馬鹿話をして騒いでいる。
 馬鹿は嫌いだ、と達樹は思う。今、中央で騒いでいてるグループなど特に。昨日見たドラマの話や、サッカーの試合について、はたまた漫画雑誌のことなど、実のない話を繰り広げている。もっと有益な話が出来ないのか。話した傍から忘れていく話など、無駄でしかないだろう。
 心の中でごちるが、そんなものに構っていることも無駄だと判断する。二枚目のプリントへ視線を移し、計算式を解いていく。
 ひたすら集中していたおかげで、数学の宿題は完成した。帰ってから、塗りつぶした点に消しゴムをかけて提出すれば問題ないだろう。時計を見れば、幸い開放時間も近い。雑多な教室にこれ以上いるよりは、情報室の前で待っている方がよほどいい。
 即座に判断した達樹は、手早く机の上を片付けると、席を立つ。これで馬鹿騒ぎをこれ以上聞かなくて済む。思って足を踏み出しかけるが、後ろからかけられた声に立ち止まる。
「うわ、ちょ、仁羽。待って」
 誰だ、と思って振り向けばクラスメイトの一人が立っていた。誰だこいつは、という思いと一体何なんだ、という気持ちが相まって、眉間にしわを刻んで見返した。
「ほらこれ。仁羽のだろ」
 しかし、気にすることもなく手を差し出した。いぶかしみながら受け取ると、見慣れた自分の消しゴムがある。
「落ちてたからさ。これ、仁羽のだよな」
 へらり、と間抜けな笑顔を浮かべる。達樹はしばしその顔を見つめて、頭の中に引っかかっていた名前を取り出した。確か、園田とか何とか言うはず。
「…えーと、違った?」
 あれー、あってたと思うんだけどなぁ、と言う園田は頭をかいている。さっきから馬鹿騒ぎをしている連中の一人、というより中心人物だ。消しゴムが落ちたことなどいつの間に気づいていたのか。大体、どうして自分のものだとわかるんだ。
 諸々の疑問が頭に浮かぶが、達樹は無視した。実際この消しゴムが自分のものであることは間違いないし、戻って来たならそれでいい。理由などは大したことではないだろう。
「ああ、俺のだ」
「お、よかった」
 一つ笑顔を浮かべると、じゃーな、と挨拶を残してきびすを返す。中央にたまっているグループの元へ、いたって当たり前の顔で合流した。今までいなかったことなど微塵も感じさせないほどの自然さで。何となくそれを見ていたが、達樹には関係のないことだ。戻ってきた消しゴムをペンケースへしまうと、情報室へと向かった。