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Note No.6

小説置場

Toys

「まつりばやしがきこえる」


(夢を見た)
(あの子が笑っている夢だ)


 僕の最初の記憶は、君の瞳だった。大きくて黒い目がきらきらしていたことをよく覚えている。それから、小さな手で僕の体を怖々と抱きかかえて、少しだけ考えた後、めいっぱいに抱きしめてくれたこと、その温もりもいつだって思い出せる。
 僕は君への贈り物の一つだったと知ったのは、君の部屋に僕の居場所が作られた頃のこと。男の子にくまのぬいぐるみをプレゼント、というのは少し変わっているような気もしたけれど、君にとってそれは大したことではなかったのだろう。嬉しそうにふわふわと笑って、溢れかえるほどの贈り物の山を、一つずつ丁寧に並べていた。その内の一つであった僕のことも、君は勿論大事にしてくれた。
 とは言っても、ぬいぐるみ遊びが好きだというわけではなかったから、タンスの上が僕の定位置になった。君が僕で遊ぶことはあまりなかったけれど、僕を忘れてしまったわけではないことはわかっていた。だって時々君は、僕に話しかけてくれていたからね。
 僕を手に取って遊ぶことはなくても、君が僕に言葉をかけてくれるだけで充分だった。ゆっくりと色んなことを覚えていって、心の内を語りかけてくれることが嬉しかった。本当に君は、降り注ぐように僕に言葉をかけてくれた。たくさんのことを話してくれた。だから、気がついた時には、僕は君のことを随分よく知っていたように思う。
 僕を大事にしてくれる君の名前。家族は君と、お父さんとお母さんの3人。外で遊ぶことが好きで、日が暮れるまで走り回っていた。窓から見える太陽みたいに光いっぱいに笑うところ。君は一つ一つ、言葉を選んで丁寧に話す。周りの人をよく見ていて、悲しい顔を見るのが苦手。何より僕が知っているのは、君がとてもやさしいってこと。やさしいからこそ誰にも涙を見せられなくて、君が泣きたい時には僕を抱えて泣くということ。
 いつからかはわからない。君は、泣き出しそうな顔をして部屋に帰って来ると僕を抱きしめてベッドに座り込むようになった。気づいた時にはそうだった。きっかけは一つもわからないけれど、理由ならすぐにわかった。君は、自分が悲しい顔をすれば同じように悲しい顔をする人がいることも、困ってしまう人がいることも、知っていたんだね。君はとてもやさしくて、同じくらいに聡明だから。
 それなら、誰も見ていない所で泣くのが一番だと思ったんだね。だけれど、君のやわらかな心はまだ、一人きりで涙を抱えることが出来なかった。だから君は、僕を選んでくれたのだ。心をほんの少しだけ分かち合う相手として、僕を選んでくれたのだ。それを理解した時の、僕の喜びと言ったら!
 君はいつも僕をぎゅっと胸に抱えて、ぽつりぽつりと言葉を落とした。勿論僕の相槌が聞こえるわけはないから、君は一人でつぶやくしかなかったのだけれど、君はまるで僕がちゃんと聞いていることを知っているみたいに話してくれていた。もしかしたら知っていたのかもしれないな、と今は時々思う。だって君はとてもやさしい。やさしくて、自分以外の誰かのために心を砕くことを当たり前だと思っているから。僕の声だって、無意識の内に拾い上げてくれていたのかもしれない。
 そんな風に、僕と君の日々は過ぎていった。僕には時間の感覚がはっきりとはわからないから、それがどれだけの年月だったのかは判然としない。だけれど、少しずつ大きくなる君の背だとか、傷だらけになっていく学校の鞄(ランドセルと言うらしい)、ふと気づけば随分とボロボロになっていた僕の腕や、汚れの目立つ僕のお腹辺りで、きっと長い時間が過ぎたのだろうと思った。
 成長していくにつれ、君は僕を抱きしめることが少なくなった。それが君の心が守られた証だったと言うなら、寂しいけれど僕は喜んだと思う。だって君が泣かなくていいのなら、これほど嬉しいことはない。僕を抱きしめたやさしい温もりが、まぶしいほどの笑みが、翳ることなく今日もあってくれるなら、僕の寂しさなんて大したことじゃない。
 だけど僕は知っていたのだ。君は成長するにつれ、一人で泣くことがとても上手になっただけなんだって、わかっていたのだ。君に与えられた一人部屋で、周りに誰もいなくなると静かに泣いていたことを知っている。手を伸ばしてくれない君を、僕はただもどかしい思いで見ていることしか出来なかった。
 君は本当にやさしい。やさしくて、人の痛みも苦しみもよくわかる子だ。だから君は、我侭にだってなれやしないんだね。タンスの上から歯痒い気持ちで君を見つめる僕は、胸の内でそっと言葉をかけた。例え届かないとわかっていても。
 いつの頃からか、君は僕を抱きしめなくなった。それが君の成長ならば、僕がいなくても歩いていける証拠だったなら、それならどれほど良かっただろう。いつか手を離す日が来ることを、僕は充分知っていた。君はいつか、僕がいなくても生きていけるようなるのだ。だけど、それは緩やかに訪れるいつかであって、君の心が選び取る日のことであって、誰かに強制的に与えられるものではないんだよ。
 君が僕を抱きしめなくなったのは、君が僕を必要としなくなったからではないのだと、僕は思う。もしかしたらそれは自惚れなのかもしれないけれど、だけれどそう思う。君はとてもやさしい。悲しいくらいにやさしい君は、誰かのために自分の心を押し殺すことを、当たり前だと思ってしまう。
 泣きたい時、君は僕を抱きしめた。そのまま眠りについてしまうことも何度かあった。朝になり、目を覚ました君は腕の中に僕がいることに気づくと照れくさそうに、ちょっとだけ困ったように笑った。それでも僕に、やわらかな声で「おはよう」と告げた。そんな朝が、何度だってあった。
 いつの頃からか、その流れは君にとって何かしらの意味を持つようになっていったのだろうと思う。例えばジンクスのようなものと言っていいのかもしれない。悲しくて胸が塞がりそうな時、僕を抱えて眠り、それから朝の光に照らされることで、またいつもの自分に戻れるのだと。痛みをリセットしてまた明るい笑顔を浮かべられるのだと。そうして自分の心を立て直すのだと、君は理解したのだろう。強くてやさしい君は、自分自身の心を一人きりで再生する方法を見つけていたんだ。
 だから君は、悲しいことがあった時や胸が苦しくて仕方ない時、ベッドに僕を連れて眠った。どんな言葉も温もりもあげることは出来なかったけど、隣に僕がいることで何かが和らいでいったらいいなと思いながら、僕はただ君の寝顔を見つめていた。きっとそれは君にとって必要な時間だったのだと、僕は思うのだけれど、だけれど同じくらいにそれは奇異なことだったのだろう。
(あの子時々、くまのぬいぐるみと一緒に寝てるの。もう大きくなったのに、変じゃないかしら)
 いつだったのか、眠りについた君の部屋を訪れたお母さんはそう言っていた。仕事から帰って来たお父さんに、僕の隣で眠る君の様子を話して聞かせていた。お父さんは「女の子ならともかく、男でぬいぐるみと一緒ってのはなぁ」と渋い声をしていた。
 それは決して、僕を取り上げようという話ではなかった。苦い声ではあったけれど、それは単に懸念を伝えるための言葉で、無理に改めさせようというものではなかったはずだ。だけど、あの時君は、聞いてしまったんだよね。
 やさしい子なのだ。お父さんとお母さんの危惧を敏感に受け取ってしまう君は、どんな些細なことでも不安を与えたくない君は、とてもやさしくて聡明だ。だからわかってしまった。決めてしまった。
 僕と一緒にいることは、僕を抱きしめることは、僕と一緒に眠ることは、僕に手を伸ばすのはおかしなことなんだと、理解してしまった。だから君は、無理に僕の手を離すことを決めたのだ。
 やさしい子。だってそうしたら、お母さんとお父さんの心配は消えてしまうとわかっていた。他の子と同じように、ぬいぐるみを大事にすることもなく、もう必要ないのだと歩いて行けば、お父さんとお母さんは安心してくれるのだと君は理解してしまった。それならもう、君の選ぶ道は一つしかなかったんだ。
 だから君は僕を手放した。タンスの上の定位置から動くこともなく、僕に手を伸ばすこともなく。君自身の心が判断した結果ではなく、誰も悲しませたくないという、やさしい決意の結果として。君は僕にさよならを告げた。
 そうして日々は過ぎていって、僕はただもどかしい思いで君を見ていることしか出来なかった。たった一人で泣く君を、部屋に入った途端に貼り付けた笑顔をぐしゃぐしゃにする君を、ただ見ているしか出来なかった。
 お調子者の顔をして、だけれど誰よりも他人の心に敏感で、やさしい君。一人で泣く必要なんかないのに。弱音を吐くことに慣れていなくて、上手に泣けない君を、僕はただタンスの上で見ているしか出来なかった。僕に手を伸ばしてくれたらいいのに、と何度も願った。何も出来ないけれど、手を伸ばすことを思い出してほしいと祈った。だけれどそれは叶うこともなく、君は僕を見ることすらほとんどなくなった。
 だってもう、決めてしまったのだ。お母さんとお父さんを悲しませたくない。普通じゃないことをしてはいけない。迷惑になることは、誰かの負担になることは選んではいけない。言葉で伝えられたわけではない。それでも、聡明な君は敏感に全てを感じ取っていた。だから君は決めてしまった。ぬいぐるみを抱きしめるなんて、一緒に眠ったりなんて、していいはずがない。だから、タンスの上の僕の存在だって、なかったことにしてしまうのが一番だ。
 長い間、触れられることもなく話しかけられることもなくなった僕は、ぼんやりしていることが多かった。時間の感覚もわからない。時々、自分がどこにいるのかも、そもそも自分が何であるのかもわからなくなりそうな、おぼろげな毎日だった。だけれど唐突に、眠りに落ちるような僕の意識ははっきりと覚醒した。だって、君が。君が、僕を抱きしめている。
 随分と体格も良くなった君だけれど、昔と変わらずあたたかなぬくもりを宿していた。最初に僕を抱きしめてくれたみたいに、強い力で僕を抱えている。僕はあの頃に比べて、だいぶ君より小さくなってしまったけれど、ぼろぼろになってしまったけれど、君は変わらぬ強さで僕を抱きしめる。
 君は何も言わずにただ泣き続けて、僕の身体には君の涙が染み込んでいった。長い間ずっとそうしていた。もしも手が動いたなら、君の頭を撫でてあげられるのに。もしも声が出せたなら「だいじょうぶだよ」って言ってあげられるのに。何も持たない僕は、ただ君の涙を受け止めていた。
 どれくらいの時間が経ったのか、僕にはわからない。君は次第に落ち着きを取り戻して行って、僕を放すと自分の隣に座らせた。そこでようやく、僕は君の様子を正しく把握した。どうやら怪我をしているようで、左足が動かないらしい。白いもので固定されていて、動きは随分ぎこちない。
 君はぽつりぽつりと怪我の原因を口にする。木登りをしていたこと。一緒に登っていた友達に置いて行かれそうになったこと。慌てて下りたら足を踏み外して、真っ逆さまに落ちたこと。そうして骨を折ったこと。
 痛かった、と君は言う。それは実際に負った怪我だけの話ではなく、君の心の声でもあったはずだ。痛かった。心が悲鳴を上げるくらい、決別したはずの僕に思わず手を伸ばしてしまうくらい、君は痛くて仕方がなかった。
 もしも僕に声が出せたなら、大きな腕があったなら、動き出すことが出来たなら。呆れるくらいに何度だってだいじょうぶって言ってあげられるのに、君を抱きしめてあげられるのに、僕は何も持っていなかった。いつもと変わらない顔で、君の声を聞いているしか出来なかった。
 君は静かな声をしていた。驚くほどに、ただ穏やかな声をしていた。瞳からずっと涙をこぼし続けているのが嘘みたいに、とても綺麗な声をしていた。そうして君は言うのだ。おれは、要らないわけじゃないけど、いなくたっていいんだ。それくらいの価値しかないんだ。
 声を出せたら。体が動いたら。そんなことはないって大きな声で言うのに、そんなことあるはずがないって首を振るのに。何も出来ない僕は、自分自身を否定する君の声を聞いていることしか出来なかった。
(みんな、おれなんかいなくてもいいんだ)
 それが当たり前の事実のような顔をして、ぽつりと君は言う。そんなことないのに。そんなこと、一欠片だってあるはずがないのに。君はただ穏やかに、静かな声で言葉を紡ぐ。
(おれのことは、誰も必要じゃないんだ)
 それなら、と君は言う。涙を拭った君は続ける。誰にも必要とされないなら、いなくたっていいなら、きっといつか捨てられちゃうんだ。
 そんなのやだよ、と君は言う。要らないって思われたくない。一人にされたくない。頑張るから、迷惑かけないから、だから、俺のこと要らないって思わないで。一人になんてしないで。頑張るから。一生懸命、頑張るから。
 その時僕に声が出せたとしても、きっと僕には何も言えなかっただろうと思う。だって君ほどやさしい子が、これ以上何を頑張るって言うんだろう? やさしくて人の痛みのわかる君が、これ以上一体何を犠牲にすればいいんだろう?
 それなのに、君は緩やかに決意してしまう。やさしくて、時々びっくりするくらいに強い君は、悲しい決意をしてしまう。もう二度と、要らないって思われないように。いつか捨てられる日が来ないように。自分の心を押し殺して、誰かの望む自分になろうと決意する。
 僕は一生懸命名前を呼んだ。殺さないで。君の心を、ありのままの君を殺さないで。ねえ、お願いだから、君は君のままで生きて。誰よりもやさしい君は、そのままの君で生きていくことを許されているんだよ。頑張らなくたって、努力なんかしなくたって、君は誰より素敵な人だよ。君が君であることを否定出来る人なんて、誰もいないんだよ。ねえ、お願いだから、君は君のままで生きて。
 だけれど僕は声なんて出せなかった。君は静かに笑みを浮かべて僕を見つめていて、それからそっと頭を撫でた。やさしくて、ただ穏やかな手つきだった。僕は座り込んだまま君を見つめながら、その手のひらを受け入れる。そうして、静かな瞳に理解する。唐突に、僕は君の心を理解する。
 悲しいくらいに真っ直ぐと、凛としてやさしい、綺麗な決意。一人になることが、捨てられることが怖くて仕方ない君の、やさしくて悲しいこころ。
 泣かないで、と僕は思う。君は涙なんてこぼしていなかったけれど、それ所かうっすらと笑っていたけれど、だけれど君は確かにあの時泣いていたんだ。誰にも見えない涙を瞳に浮かべて、そうして泣いていたんだ。
 僕はこの時ほど、僕がただのぬいぐるみであることを呪ったことはないだろう。僕に声が出せたなら、言葉を届けられるのに。僕に腕があったなら君を抱きしめられるのに。僕に心臓があったなら、君を抱きしめて君の分も泣いてあげられるのに。
 ただのぬいぐるみでしかない僕には、そのどれも出来ない。何の力にもなれない僕に出来ることは、もう一つしか残っていなかった。
 やさしい君。やさしくて、人の痛みや苦しみや心の内を、悲しいくらいに理解してしまう、僕の大事な君。たくさん抱きしめてくれたね。きらきらの目で僕を見てくれたね。降り注ぐように声をかけてくれたね。僕と一緒にいてくれたね。僕はもう、それだけで充分だから。
 僕は心で名前を呼んだ。声にならない声で、それでも出来る限りの精一杯で、僕の知る一番丁寧な声で名前を呼んだ。君はもう決めてしまったんだね。悲しい決意をしてしまったんだね。誰の心も傷つけないように、誰の心も波立たせないように、生きてゆこうと決めてしまったんだね。
 それなら僕は、君の前から消えるから。
 だって君にとって僕は、お父さんとお母さんの心を曇らせる存在だ。僕を抱きしめて泣くことは、君にとってお母さんとお父さんを心配させることに他ならない。やさしい君はきっと、僕を捨てることなんて出来やしないだろう。たとえ僕の声が聞こえなくたって、簡単になかったことに出来る子じゃないことくらい、僕がよくわかっている。
 だけど同じくらい、今まで通りに僕に手を伸ばすことだって出来やしないね。もう君は決めてしまったから。誰の心も曇らせまいと、一粒だって影を落とさないようにして生きると決めてしまった。その決意が僕にはもどかしくてならないけれど、そうしなければ君が歩いて行けないというなら、僕は全てを受け入れる。そのために、僕は邪魔な存在になるんだろう。
 やさしい君は僕のことを捨てられないから、きっと僕を見るたびに悲しい顔をする。もう決して手を伸ばしてはならない存在が近くにあれば、君は苦しい思いを抱えるだろう。それは僕が一番望まないことなんだ。だって僕はいつだって、君が幸せでいてくれることを祈っているから。
 僕の大事な君。大切な、誰よりも大切な君。悲しい顔をしてほしくない。一つだって翳りのない、まばゆい笑顔を見せてほしい。だからね。僕と居るのが辛いなら消えるから、どうか、泣かないで。


 ――そうして僕はここに来たのです。
 長い話を終えると、僕はふう、と息を吐いた。あれから何がどうなったのか、僕にはよくわからないのだけれど、気がついたら僕はあの子の部屋からここへ来ていた。周りには何も存在していなくて、ただぼんやりとした光だけが漂っているような場所だ。見えるのは、僕の薄汚れた腕やお腹くらい。
 だけれど、たった一人というわけではないことも知っていた。時々はっと気がつくと、僕以外のおもちゃが現れることがあった。それは大概薄汚れていて、随分年月を感じさせるものが多かった。
 僕に目もくれずどこかへ行ってしまうものもあれば、僕と話し込んでいくものもあった。ここが一体何なのかは僕にもわからないけれど、役目を終えたおもちゃたちがやって来る天国のような場所かもしれない。答え合わせは出来ないから、正解がどうかはわからないけれど。
 ――あなたも役目を終えて来たのですか。
 さっきから話し込んでいる相手にそう尋ねると、ゆるやかに首を振る。僕はそうですか、と笑った。まだ持ち主に必要とされているらしいので、ここは天国というより、おもちゃの世界の舞台裏のようなものかもしれない、とも思う。出番が来るまで一休みする待機場のような。僕はきっと、もう二度と出番なんてないのだろうけれど。
 ――そんなことはない、だなんてやさしいことを言ってくれるけど。僕は何だか随分長い間ここにいるような気がするんです。
 あの子はもう、僕を必要としないのだろうと思う。それは単純に、あの子が成長した証だったらいい。僕がいなくても生きていけるようになったから、もう二度と僕を必要としないのだったらいい。自分を殺して、手を伸ばすことを忘れてしまった結果でなければいい。
 ――僕にはそれを確かめることも出来ないけれど。
 それでも僕は願っているのだ。僕の大事な、大切なあの子が笑っていてくれたらいいと、心から祈っているのだ。最初にあの子に会った時、僕があの子のものになった瞬間から、僕の願いは一つだけだ。僕が望むことは一個だけだ。笑っていてくれますように。泣かないでいてくれますように。太陽みたいなめいっぱいの笑顔をしていてくれますように。その時隣に僕はいなくても、君が笑ってくれるなら僕はそれだけで幸せなのだ。だって君は、僕の大事なあの子は、誰よりやさしい君は、あたたかなぬくもりを与えてくれた日から、僕の世界そのものだったのだから。
 ――名前?
 唐突に尋ねられた言葉を、僕は思わず繰り返す。そんなことを聞かれるとは思っていなかったから、何だか少し新鮮だった。名前。僕の大事な、あの子の名前。忘れるものか。一秒だって、君を忘れたことはない。世界の名前を忘れたことなんてない。僕は久しぶりに呼ぶ君の名前を、丁寧に形にした。僕の大事なあの子は、やさしくてあたたかな君の名前は。
 ――よしとくん。
 光で溢れるような、やさしい君の笑顔が浮かぶ。ねえ、よしとくん。君は笑っていてくれるかな。自分を殺さないで、笑っていてくれるかな。そうだったらいい。やさしい人と一緒に、君がたくさん笑える場所で生きていてくれたら、これ以上嬉しいことはない。
 僕の返事を聞くと、ぴんく色をしたうさぎのあみぐるみは、何だか嬉しそうにうなずいたように見えた。

 

 

Motif & Quote

「この胸に僕にも心臓があったなら 抱き寄せて君の分も泣けるのに」

「僕と居るのが辛いなら消えるからだから泣かないで」

【初音ミクDark】 Toys 【オリジナル曲】 by mato VOCALOID/動画 - ニコニコ動画