読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Note No.6

小説置場

冴ゆる

 遠くに霞む、澄んだ記憶。

(とうさん、)
 小さく呼ぶのは俺の声。青白い世界に沈んでしまいそうな父さんの背中を追いかけている。確かに叫んでいるはずなのに、音は俺の耳にさえ届かない。大きく息を吸うと、冷たい空気が肺に入り込んで咳をした。空気をみんな吸い取られてしまったみたいで、上手く息が出来ない。涙が滲んで、父さんの背中が遠くなる。雪に足を取られて転んだ。起き上がるけど、顔面雪まみれで視界が真っ白なままだ。何も見えなくて、今度は生理的なものじゃなく涙が浮かんできてしまう。
(ああ、こんなに雪だらけになって)
 しかし、近くで聞こえる声に俺は唇を噛み締めて涙をこらえた。いつのまにか近くまでやって来ていた父さんは、ごしごしと俺の顔をこすった。雪が溶けて俺をのぞきこむ父さんの顔が見える。
 俺とは全然違う、白に近い灰色の髪と目。雪の中を歩いているとそのまま雪に混じって消えてしまいそうな、はかない父さんの姿が目の前にあって思わず抱きついた。
(冷えてしまったなぁ)
 俺の体を抱きしめた父さんは、冷え切った俺に自分の耳あてと首巻をしてくれる。父さんの首巻は大きいから、首どころか顎まで埋もれてしまうし、耳あても大きくてずり落ちてしまう。
(歩けるかい)
(あるける、よ)
 すんすんと鼻をすすりながら、思い切りうなずいた。歩けないと言って足手まといと思われたくなかった。父さんは俺の返答に、ふわりと笑った。その笑みは睫毛に乗った雪が溶けていく様を、どういうわけか思い起こさせて慌てて父さんの手を握った。大きな手のひらを握ることは出来なくて、指を掴んだだけだったけれど。父さんは振り払うこともせず、ゆっくりと進んでいく。
 一体どんな話をしていたのか、記憶にはほとんどない。どこへ行こうとしていたのかすら曖昧だし、夜だったのか朝だったのか昼だったのかすらわからない。一体何のために雪原をひたすら歩いていたのか。覚えていないけれど、一つだけ確かなのは、父さんと並んで雪の中を歩いていた、それだけだ。
(とうさん)
 つぶやきはやっぱり遠い。雪に吸い込まれてしまった所為か、耳あての所為か。それはわからないけれど、父さんが遠い気がしてぎゅうっと指先を握った。
(どうしたんだい、   )
 後ろの方が聞き取れなくて、父さんを見上げる。父さんは笑っていたけど、笑顔ではない気がした。困ったような、どうしたらいいかわからなくて途方に暮れているような、そういう顔。
(とうさん、)
 どうしたの、という言葉が風にさらわれる。睫毛に引っかかった雪の所為で、父さんの顔がよく見えない。雪が降り積もったみたいな父さん。このまま風にさらわれて、吹き消されてしまう気がした。強く指を握りしめる。
(     )
 父さんが何かをつぶやいたけど、俺には聞こえない。耳あてを取るけどやっぱり声は聞こえなくて、ただ父さんの口だけがぱくぱくと動いている。
 何を言っているんだろう。父さん、ねえ父さん、俺には聞こえないよ。
 風の音が強くて、雪が巻き上げられる。気づいたらいつの間にか吹雪いていて、視界が急激に悪くなっている。掴んでいたはずの父さんの指先は俺の手を離れていて、父さんの姿が遠くなる。風の音にかき消され、声が聞こえない。父さんの声も、自分の声も届かない。口をぱくぱくと開けている父さんだけは見えるけど、何を言っているかわからない。父さん、ねえ、何を言っているの? 俺には聞こえないよ。ねえ。
「…とうさん」
 自分の声で目を覚まし、見慣れた暗がりが目に入って自分の部屋で寝ていたことを悟った。ああと呻きながら上体を起こし、頭をかき混ぜる。夢を見ていたことはすぐにわかって、つぶやく。
「久しぶりだなー父さん出て来るの」
 くああ、と一つあくびをすると薄い布団をかぶって再び眠りに入ろうとする。瞼を閉じればそこには父親の姿がある。具体的にどんな場面だったのか記憶にはないけれど、何となくわかっていることがあった。
 父さんはきっと呼んでいた。俺に呼びかけていた。だから、口を開いていた父さんが口にした言葉は決まっている。低くてやさしい声で、きっと。
(カバネ)
 父さんは俺の名前を呼んでいたんでしょう?