Note No.6

小説置場

愛しき

(綺麗なものになりたかった)




 選んだ道を、後悔しているわけじゃないんだけれども。覚束ない足取りのままで、霙はふと考える。機械的に一歩ずつ足を踏み出しながら漠然と考えることはもやもやとしていた。振り払ってしまえばいいとわかるけど、手放すことも出来ない。まとわりついて離れなくて、今考えるべきことはこんなことじゃないのに―と自覚しながらも思うことは止まらなかった。
 全面的に肯定しているかと言えばそういうわけでもないし。でもやっぱり、後悔しているのかと聞かれれば、そうじゃあないんだ、と答えるのだろう。さくさく、と雪を踏みしだいて歩く。視界の端は黒く染まっている。歩くごとに体が傾いでいくような気がして仕方ない。自分の重心が不明瞭で、もはやちゃんと真っ直ぐ立てているのかも怪しかった。
 耳障りな呼吸音が聞こえて、それが自分の息だと知った。不規則で早い。短く繰り返される呼吸の音は雑音でしかない。ふとそれに気をとられていたら、ずるりと足を滑らせた。上手く受身も取れず、したたかに肩を打った。起き上がろうとしたのに、足にも腕にも力が入らない。うつぶせになった体を仰向けにする所までが、今の霙に出来る精一杯だった。
 早く浅い呼吸を繰り返しながら空を見た。視界いっぱいに映るかと思った空は、小さかった。霙はゆっくり息を吐いた。呼吸ではなく、嘆息だった。仰向けになったままの視界にうつるのは、霞か靄のようだった。ふわふわとしたもので空間が満たされている。薄らと色づいたそれが何なのか、霙には一瞬理解出来なかったのだけれど。雲のようにふわふわと、頭上には桜が咲いている。
 狂い咲きだ、と霙は思った。こんな時期に、桜が咲いているわけがない。それなのに、異様とも言えるほど咲き誇っているというのだから狂い咲きに違いない。咲く時期を間違えて咲いてしまった、阿呆な桜だ。それでも、霙は確かに唇に笑みを刻んだ。
 指の先が冷たくて、動かそうと思ったけれど出来なかった。吐く息が白い。寒いような気がしたけれど、体は痺れて動かない。ただ瞳だけがきろきろと動いて、周りの様子を探る。もっとも、視界いっぱいに映るのは桜の花びらだけなので、わかることなどそうなかった。しかし、突如視界に何かがよぎって霙は一瞬体を強張らせる。追っ手かとも思ったが、そうではなかった。ちらちらと、恐らく灰色の空から降ってくるのは雪だった。ちらちら、ちらちら、桜の隙間を縫うようにして霙へふりかかる。これで、少なくとも追っ手は撒けそうだと察知して、ほっと安堵の息を漏らす。雪で痕跡は消えてしまうから、この場所はわからない。もっとも、味方にもここはわからないけれど。
 浅く息を吐き、目の前の光景を見つめている。狂い咲きの桜にふりかかる雪。あるはずのない光景だけれど、網膜の奥に焼き付けるように、じっと視線を注いでいる。その時、大きな風が吹いた。はらはら、桜が舞う。雪が散る。薄紅色をした桜の花弁が雪の切片とまじりあい、風に乗って流れていく。渦巻く二つの洪水に、霙自身も飲み込まれてしまいそうだった。呼吸すらさらわれて、淡い色をした風が視界を埋め尽くしてゆく。凍てつくような雪と、羽毛のような桜の花弁が、霙の眼前でくるくると舞い踊る。
 ただじんわりと、霙は思った。綺麗だ。なんて綺麗な光景だろう。
 後悔しているのかといえば、そんなことはなかった。今までの全てが正しかったとは思わないし、平穏な生活を望まなかったわけじゃない。それでも、この道を選んだ自分を後悔してはいなかった。たとえば、誰のことも殺さなくてよくて。血の匂いも肉の裂き方も骨の断ち方も知らず、お嫁さんをもらって子どもを設けて、平凡に暮らしていくだとか。望まなかったわけじゃない。欲しくなかったわけじゃない。だけど、今ここにいる俺自身を否定するつもりは毛頭なかった。
 綺麗だ、と霙は思っている。痺れる体で、電撃にでも打たれたように、ただひたすら目の前の光景を見つめている。綺麗だ。血まみれのてのひらで、汚れた両手しか持っていない俺だけれど、綺麗なものは綺麗なんだ。
 ゆっくりと息を吐いた。呼吸の回数が先刻から減っていることに気づかぬ霙ではなかった。体を巡る血液が、拍動を刻む心臓が次第に弱まっていることくらい、わからないわけがない。体のつくりを一から叩き込まれ、人の殺し方だけは随分上手になったのだから。
 霞み始める視界の中で、埋め尽くされる桜と雪は信じられないほどに美しかった。たおやかでやさしく、それでいて鋭く澄み切っている。
 後悔なんてしていない。今こうして生きてきた自分の所業が誇れるものだとは思わない。誰彼構わず殺したし、子どもも老人も殺したし、依頼されたら誰でも殺した。両の手のひらは、汚くて血まみれでぐちゃぐちゃだ。だけど、自分自身に胸は張れると思ってきた。他の誰かは認めなくとも、俺だけは、ただの人殺しの俺だけは、俺を認めてやれたのだ。だから後悔なんてしていないのだけれど。
 目の前の風景を見つめながら、霙はつぶやいた。心の中で、じわりと滲み出してきた言葉を、ぽつりと落とした。怜悧なまでにやさしく、美しい、奇跡のような光景を前にしながら、霙は思う。
 おれは臓物を浴びすぎた。死臭をまといすぎてた。後悔はしないけれど、いくら望んでも平穏な生活など手に入るはずがなかったよ。あたたかくてやさしいものを知っているけれど、同じくらいに屠ってきた。でも、そういうおれが、おれは、愛しくてならないよ。血まみれの両手が、這いずりまわってぐちゃぐちゃの体が、このおれの手のひらが。おれはおれのことが、かなしくて、いとしくて、しかたないよ。
 ねえ、こんな、血まみれのおれでも。


(綺麗なものに、なりたいよ)