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Note No.6

小説置場

甲夜

「いろは」

(はじめてひとを殺したとき、きっときみはふるえていた)

 

 全速力で走っていた。らしくもなく土を蹴立てて、藪をかきわけて突っ走る。痕跡はしっかりと残っていただろうけれど構っていられない。やたらと広い校内の敷地が、今だけは恨めしい。小雨はただ全力で、自分の部屋への帰還を目指していた。
 十三歳になって、学年が一つあがった。明確な区切りはなかったけれど、上下中でいう中学年になって、少しずつ少しずつ、授業の内容に変化が生まれていることに気づいたのは春先だ。今まで決して扱わなかった火器に触れるようになった。刃物の研ぎ方を学んだ。応急処置だけだった保健の授業が、本格的な人体構造についてになっていた。その意味に、小雨たちの組はすぐに気がついた。中でも、小雨は一等に気づいただろう。それは優秀だとか聡いだとかそういうことではなく、物心つく前から学校の意味をよく理解していた―それだけのことだった。
 全速力で走っている。急げ、急げ、急げ、急げ! 普段は大人しくて、どんな時でも慌てることのない小雨がこんな風に走っているなんて、それこそ明日の天気でも疑われそうである。だが、そんなことに構ってなどいられない。笑うなら笑えばいいし、後ろ指をさしたければさすがいい。今小雨にとって重要なのは、どれだけ早く部屋へ着けるかということだ。
 小雨たち、天の組から始まったということはある意味必然であったと思っている。人知れず教師に呼び出され、告げられる言葉。それが最初で最後の分岐点だ。次は決断に時間のかかる木かもしれないし、切磋琢磨の火と水かもしれない。何にせよ、自分たちから始まってしまった。その中で小雨はわりと早い方だったから、失念していたのかもしれない。自分はもう終わってしまったから、とどこかで気を抜いていたのかもしれない。
 角を曲がると長屋が見えてきた。外側にあるのは上学年の長屋だから、もう少し走らなくてはならない。長屋を見た瞬間に思い出したのは最初の風景で、小雨は唇を噛み締める。
(はじめまして)
 小さくてやわらかい手のひらを差し出して、そう言った。黒い瞳と黒い髪がきらきらしていた。長屋では相部屋になるとは聞いていたけれど、一体どんな人間が来るかはわからなかった。どんな人間でもいいか、と思っていたのは上手くやっていける自信があったからではなくて、どうでもよかったからだ。ざっと見渡してみれば、同じ天組の人間は自分と似たような連中ばっかりで、つまりはわが道を行く他人なんてどうでもいい、という人間だらけだった。だからきっと相部屋の人間もそんな感じで、それなら気を遣わなくていいだろうと思っていた。それなのに。
(はじめまして、おれ、えーと、そう、てるとっていいます)
 与えられた名前にまだ慣れないながら、口の中で名前を噛み締めてそう言った。はにかむように、赤く染まった目尻が綺麗で思わず手を差し出していた。やわらかくて、白い、てのひらだった。
 照斗、と小雨は名前を呼んだ。ずっと一緒に育ってきた同じ組の、相部屋の少年。個性的な天組の中ではいたって普通で、その辺りにいそうな人間。出たい授業に出て、嫌なら休むのが基本の組で一人律儀に全部出席していた。興味のあるもの以外には見向きもしない連中の中で、どんな所でも顔を出す。片付けは基本的に照斗の役目で、提出物だってそうだった。お人好しで、頼まれたら嫌と言えなくて、裏表ばっかりの人間の中で純粋に笑っていた、僕の友達。
 照斗が「任務」を受けたのはいつだったろう。そろそろ天の連中は全員終える頃だったから、決行するのはこの辺りだと、推察出来てもよかったというのに! 小雨は自分の不注意さを呪わずにはいられなかった。些細な変化も見逃さず、そこから全体像を描き出さねばならないというのに、何という体たらくだ。
 長屋が見えてきた。中でも奥まった場所にある自分たちの部屋へ近づくと、聞き慣れた声が聞こえてくる。全ての力を絞り出すような、慟哭。押しつぶされてしまいそうな叫び声。
 お人好しで裏表がなくて、純粋な照斗。「任務」を受けて迷わないわけがなくて、どれだけ苦悩したことだろう。それでも、小雨は照斗が選ばない、という選択肢だけは予想していなかった。絶対に、照斗はやり遂げる。お人好しで裏表がなくて、純粋。だからこそ、この組の誰も適わない。誰一人、照斗自身さえそれには気づいていないけれど――小雨だけは確信していた。
 草履を脱ぎ捨てると縁側に乗り上げ、自分たちの部屋を目指す。聞こえる声に導かれるように、灯に吸い寄せられてゆくように。
 はじめて人を殺したとき、きっと照斗は震えたろう。今もきっと、慄いているのだろう。小雨には何の感慨もなかったけれど。だからこそ、小雨は照斗に言いたかった。怖くて、震えていて、恐ろしくて、悲鳴をあげてしまうような、そんな目にあったとしても。それでもこの場所を掴んだ。ここへ帰ることを選んだ。
 照斗、照斗、と小雨は心の中で強く何度も名前を呼ぶ。抱きしめてあげる。折れてしまいそうなほど力強く、照斗を抱きしめるよ。そうして、震えながら、その手を汚して、放棄しないでここへ帰ってきてくれた照斗に、おかえりと言うよ。