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Note No.6

小説置場

丙夜

「いろは」

(ひとを殺しにいってきます)

 


 相部屋に戻ると、奏波が刀を研いでいた。丁寧に、丁寧に、普段ならやらない柄紐にまで手を入れているから、潤居は理解した。たった今担任に呼び出され、淡々と言い渡された「任務」。衝撃がなかったわけではないけれど、思っていたよりも冷静に受け止められたと、潤居は思った。誰に言われるでもなく、恐らくどこかでこの日が来ることを理解していた。目の前の人間も。
「弧厳堂の粉か?」
「そうだ」
 肌身離さず従えている愛刀へまぶしているのは、町でも一二を争う刀剣屋のものだ。普段使っているものとは格が違い、きめ細かな粉末は刃をいたわり研ぎ澄ませるのに役立つ。切れ味のよさを保つのに、惜しんではならないとは言ってもいかんせん、二人はまだ学生の身分である。そうほいほい高い粉は使えない。
 潤居も自身の刀を引き寄せる。奏波の柄紐は紫だが、潤居の柄紐は黒っぽい赤をしている。すらりと抜けば、普段の手入れの甲斐もあって己の顔を写していた。いつも通りのふりをして、どこか違っている顔。
「奏波」
 名前を呼ぶ声もいつもと違う気がして、潤居は内心で苦笑した。まったく、どこが冷静だと言うのだろう。奏波は見向きもせず、声だけで「何だ」と尋ねる。潤居も特に顔を向けずに言った。
「生きて帰れよ」
 奏波が反応したことは、空気を通してわかった。しかし、潤居は気づかないふりをして先を続ける。当たり前の顔をして、刀に映る自分自身を見つめながら、ゆっくりと続ける。
「必ず。生きて、ここへ帰れ」
 潤居の言葉が何を指しているのか、わからない奏波ではない。数十秒間沈黙を流してから、大きく重い息を吐く。
「それはこっちの台詞だ。お前こそ、ちゃんと生きて帰って来いよ?」
「当然だ」
 からかうような響きの言葉だったから、潤居も軽く答えた。当たり前のように、何でもないことのように。発した言葉の意味を、お互い知っているのに、触れずに返す。生きて帰る―それはつまり、任務を果たして戻って来いということだのに。
 しばらくの間、手入れをする音だけが響いていた。金属の触れ合う音や、粉をはたく音。時折庭の立ち木が風で揺れたり、格子がかたかたなったりする程度で、音はない。どちらともなくその音を聞きながら、二人は自身と互いの言葉を考えていた。
 生きて帰れ。出かけていって帰って来いと言う。それを自身も望んでいる。悩むだろうと思っていないわけではない。苦悩はするだろう。自分自身について考えこみもするだろう。苦しくて、辛くて、逃げ出したくなるかもしれない。それでも、必ず「選ぶ」ということだけは、理解していた。少なくとも、組の連中全員が尻込みしたとしても、目の前のこの人間だけは、絶対に成し遂げる。予感でもなく確信でもなく、二人にとっては当たり前の事実だ。
「…潤居」
 部屋の中に、言葉が落ちた。奏波がぽつりと声をかける。
「あの大門の景色は、変わるかな」
 小さな含み笑いとともにつぶやかれた言葉だった。蝋燭の火を吹き消すように、軽やかでささやかだ。
 大門というのは、学校の敷地に入る際の大きな門である。裏門とは比べ物にならないほどに大きく威容を誇っている。あの門を通って入学し、外の実習へ出かけ、今回の任務へと旅立っていく。帰ってきた時、あの大門をどんな風に見るだろう? 奏波の言葉はそういうことだろう。
「それは、帰ってみねーとわかんねえよ」
 唇の端を上げて、白い歯を出しておどけるように答えた。奏波ははじめてちゃんと潤居を見て、「そうだな」と笑った。
「そういえば、お前はどの方角なんだ?」
「俺は東」
「…私も東の森を越えないといけないんだよ」
「じゃあ、方向同じじゃねーか」
 俺も東の森越えだ、と言っていつも持っている地図を取り出す。何度か超えた森だから、そう難しい話ではない。しかし、念には念を入れて計画をするのはもはや習性となっている。二人は学校教材である地図を真ん中にして、額を付き合わせる。出立時間によって入口は変えたほうがいいだの、今の時期はヤタカエデが群生していると足止めされるから遠回りした方が逆に近いだの、様々な情報を総合しては計画を詰めていく。
 二人一緒に出かけるわけではなかったけれど、目的は同じだった。標的が同じということはないけれど、「任務」は最初で最後の分岐点だった。生きて帰るということは、それを果たして帰るということ。それを望んでいると言うのなら、同じ強さで思う己が何より望みの深さを知っているから、約束を果たすのだ。
 大門を通り抜け、東の森を越え、二人は人を殺しに出かけてゆく。