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Note No.6

小説置場

覇王

「紫夜の皇帝」

 その瞬間、全ての空気が塗り替えられた。

 頂点まで登りつめたのは一瞬だった。しかし、それだけでもう充分だった。ソファに寝転がっていた士音は反射的に飛びおきると、静貴から距離を取った。理性や思考の存在しない、ただ本能的な行為。全身の毛穴が開ききっていた。禍々しくも圧倒的な何かが己の心臓を鷲掴みにしたのだとわかってしまった。静貴が自分を害することなどないと、そんなことはわかっていても。そんなものは意味がなかった。害するだとかそういうレベルではなく、ただ逃げることを選ばなくてはならないほど、押し迫っていた。
 パソコンを操っていた結人は、完全に動きを止めていた。士音のように逃げ出すことが出来るほど、筋肉に伝達出来るほどの余力が、彼にはなかった。逃げるなんて。己の体を動かすなんて。この静貴を前にしてそんなことが出来るのは、一部の優れた身体能力保持者だけだ。
 ただ結人に出来たのは、呼吸を忘れてしまいそうになる己自身を叱咤することだけだった。ともすれば心臓さえも鼓動を打つことをためらうのではないか。呼吸を忘れてしまえばその瞬間、心臓も動きを止めるのではないか。馬鹿げているとわかっていた。それでもあるいは、と思わせるほどの力強さがあった。簡単だ。静貴を前にして、一瞬の内に膨れ上がる静貴の心の内を捕らえて、平静でいられるはずがない。
 まばたきするほどのわずかな時間で。世界は様相を変え、ただ静貴に屈する以外の選択肢など与えられていなかった。
 どれくらいの時間が経ったのか。もしかしたら、大した時間ではなかったのかもしれない。本当に数秒しか経っていなかったのかもしれない。それでも、士音と結人にとっては、永遠のようだった。圧倒的な強さの前で、なす術もなく凍えるだけの彼らにとっては。
「悪い」
 静貴がぽつりと言葉を落とす。唇には笑みが浮かんでいて、いつもの顔に似ていた。傲岸不遜で尊大な、いつもの静貴の笑みに似ていたけれど、違った。
「息は出来るだろ」
 確認するようにそれぞれへ声をかける。士音は変わらず静貴と距離を取ったままで、それでもこくりと肯定を示した。怯えの色はないももの、近づくことは出来ないらしい。静貴は少し手を上げて、「もう少し待ってろ」と告げておく。今はまだ、解除出来ねぇから、と。士音はゆっくりうなずいた。
「結人、息は止めるなよ」
 一応これでも抑えてるんだから、と続ければ、結人はまばたきで答える。筋肉はぎこちなく、未だきちんとした情報伝達を取り戻してはいないらしい。それでも、静貴からすればきちんと呼吸しているだけで充分だった。同じ部屋にいて、これだけの近さにいて、意識を失わなずに息をしているならば。
 静貴は満足そうに二人へ視線をやってから、室内に引いてある電話へ手を伸ばした。携帯電話ではなく、きちんと固定された電話だ。直通電話の番号の内、今まで大して使っていない電話番号を押す。コール音はすぐに途切れ、相手が電話に出る。どうせ本人にはつながらないだろうし、その場にいるとは思っていなかったので、静貴は淡々と言った。
「御影使から電話だと伝えろ。即刻折り返せ」
 短い言葉だった。電話線越しの声だった。それでも、電話の奥の職員が慌てふためく様子が伝わってくる。声がしばし遠くなり、再び戻って来た時には別人の声になっていたことから考えるに、最初の人間は倒れたのかもしれない。つい漏れたな、とわずかに静貴は顔をしかめる。
「この電話番号だってだけで後はわかるだろ」
 新しく電話に出た人間にそれだけ言って、受話器を置いた。本来ならば何も言わず、この番号から電話がかかったってだけで、どう行動すればいいかわからないはずがないのだ。まあ、最近の馬鹿っぷりから考えると折り返しまでどんだけかかるかわかんねぇけどな。腹立たしく思いつつ、同時にどこかで安堵もしていた。
 それは恐らく、大義名分が出来たことへの安心なのだろう。ただ純粋に行動が出来る。今の静貴には立派な理由がある。憤怒に身を任せ、冷静な手段で持って冷酷に断罪する権利が、静貴の手にやって来たのだ。
 静貴は再び受話器を取った。どうせすぐにかかって来やしないのだし、それなら自分のやるべきことを済ませてしまえばいいだろう、という判断だ。今度の電話はワンコールでつながった。そういえばあいつ、今日はずっといるっていってたな。
「樹ノ島か」
 名前を呼ぶと、静貴より20以上年上の人間が丁寧に返事をした。へりくだるのではなく、心からの敬意と畏怖のこもった声。そういう人間だからこそ、徹底的に伸された上で静貴を敬うことを選んだ、少なくとも声だけで押し負けることのない人間だからこそ、名目上だけとは言え静貴の代わりを務めている。
「喜べよ。やることが出来たぜ」
 どうせ暇だったろ、と告げながらこれからの行動を並べ立てる。時系列に沿って、2年後までの計画をきっちり伝えた。先ほどから頭の中で組み立てていたのは、これからどうすれば効果的に、それでいてじわじわと相手を苦しめられるか、という算段だった。一撃を食らわせてボロボロにし、尚且つその上で全てを搾取し、跡形もなく消滅させる。それが静貴の最終目標だ。原型など留めさせてなるものか。跡形もなく、歴史上から抹消させてやる。
「詳しいことはもう少し後で詰めるけどな。ひとまずそれだけ対応しとけ、あとお前もちゃんと勉強しとけよ」
 質問されて答えられなかったらどうなるかわかってんだろうな、とつけくわえておく。樹ノ島は飄々とした口調で諾の言葉を返した。
「あ? 俺ん所? いや来るなよ。用事はねーけど、お前多分倒れるから」
 さすがに今の状況で面と向かって相対したなら、ただでは済まないだろう。樹ノ島は一瞬黙ったものの、納得したらしい。かしこまりました、という言葉を聞いてから受話器を置く。
 肩を回して周囲を見渡せば、相変わらず士音は遠巻きに静貴を見ているし、結人はかろうじて呼吸を繰り返している。先ほどから微動だにしない理由も、声すら発さない理由も、静貴はよく知っていた。
「悪いな、あと少しだから」
 つぶやけば、その言葉を合図にしたように電話が鳴る。折り返しの電話であることはすぐにわかった。受話器を手に取り、静貴は禍々しい笑みを浮かべる。どこまでも圧倒的な、捕食者だけに許された絶対的な微笑で。
「よう、馬鹿総理」