Note No.6

小説置場

Call, calling

 たとえもう二度と、許されないとしても。

 夢を見ているんだと、わかっていた。木漏れ日の中で、光のように笑う姿。まるで重力を感じさせず、空中に浮き上がる。空を一直線に横切って、飛んでいく影。風を味方にして、戯れるようにくるくると体勢を変える。誰にも真似出来なかった。誰一人、同じように飛べる人間はいなかった。
 飛行に長けた人間は何人も知っている。実際、飛行能力だけを取ったなら、それこそもっと腕のある人間は大勢いるだろう。しかし、俺には一つだけ確かなことがあった。
 フリーツほど、全身から喜びをにじませて飛ぶ人間を知らない。地上で暮らしていることが冗談みたいに、空に馴染んだ人間を知らない。風が、雲が、太陽が、雨が、降る光の全てが、フリーツを愛して止まなかった。俺はフリーツ以上に、空から愛された人間を知らないのだ。
(ノノ!)
 新入生としてこの学校へ入学してから、たまたまフリーツと顔を合わせた。一体何が良かったのか、それともただの気まぐれか。とにかくフリーツはよく俺の前に現れるようになったのだ。そして、光のにじむ笑顔を浮かべて「ノノ」と呼んだ。
 夢を見ているんだ、俺は。だってフリーツが笑っている。いつかと変わらない笑顔で、重力なんて微塵も知らない顔をして、世界中の何もかもから解放されて、ただフリーツが笑っている。これ以上の幸せはないって顔で、当たり前みたいに笑っている。これが夢じゃなくて一体何だって言うのか。わかっているから、この夢が途切れてしまわないようにと願った。
 俺はもうこうするしか、フリーツには出会えない。そんなことは何より嫌というほど知っている。俺が殺した。俺が救えなかった、大事な命。するりとこぼれていってしまった手のひらの熱。いつだってあの後悔はよみがえるのに、笑顔を思い出すのはとても難しい。真摯な声音や、固い決意を秘めた瞳、風にあおられる前髪、少し上がった唇。そんなものは簡単に思い出せるのに、幸せで仕方ないってお前の笑顔は、いつか霞んでしまいそうだ。だから、夢の中で何度も確認する。
(ノノ!)
 少し高い声で、やわらかな響きで呼ばれた俺の名前。あの夜は決して消えない。それなのに、毎日呼ばれていたお前の声は、簡単に記憶から零れ落ちそうだ。きっと最初に忘れてしまうその声を、何度も夢に見ることで俺は俺の記憶をつなぎ直している。熱い意志と敬虔な決断を載せた、あの声は耳から離れないのに。何度も聞いてきた、お前の声。日々の中で、何度だって呼ばれていた。もう二度と、聞くことの出来ない声。
(ノノ)
 意識が薄らと浮上していくのがわかって、舌打ちをしたい衝動に駆られる。目覚めたくない。もう少し、あと少しでいい。フリーツの声を聞いていたい。フリーツの笑みを留めていたい。この記憶を刻み直していたい。こうでもしなくちゃ、顔を見られない。夢の中でしか、お前に会えない。
 ずっと昔みたいに、笑ってくれて名前を呼んでくれている。二度と戻らない日常だなんてこと、よくわかっている。これが夢だなんてことは、痛いほどわかっている。
 それでも良かった。夢で良かった。夢でいいから、こうしてお前に出会いたかった。たとえ二度と許されなくても、決して消せない罪を抱えていても、せめて夢でお前に会いたい。
「……」
 しかし願いは叶わず、俺の意識はしっかりと覚醒してしまったようだった。目に飛び込んできたのは、見慣れた天井。研究室の薄汚れたタイルが目に入った瞬間、実験途中で仮眠を取ったことを思い出した。
 体を起こして、かけていた毛布を引き剥がす。簡易ベッドとして使っていたソファに放り投げ、経過観察中のフラスコとシャーレへ視線をやる。見た目は変化なし、化学反応も現れていないようだ。俺が望んだ通りの結果なら、無直透明の液体が青みがかり、わずかに発光するのだが。
 やはりこれもハズレだったか、と思いつつも顕微鏡をチェックする。一応精査しなければ、はっきりとした結論を出すことは出来ない。十中八九駄目だろうと予感はあるのだが。
 顕微鏡に不備がないことを確認してから、シャーレを覗き込む。前日の培養状態との変化を見比べ、通常通りであることを確認。フラスコの中身を分離させて覗くも、同じ結論に達する。要するに、前日の段階とこの液体は何も変わっていないということだ。
 予想はしていたものの、はっきり結論付けられてしまうとわずかに落胆がにじむ。わかってはいたつもりだけれど、やはりどこかに「もしかしたら…」という期待があったのだろう。何度外れているかもわからない、淡い期待が。
 さてそれじゃあ次の採集先を考えるか、と地図を広げている時だった。研究室を共同で使っている、同じゼミの人間が入ってきたのだ。そいつは俺と、ソファの周囲に落ちた毛布で、昨日俺が泊まりこんだことを知ったらしい。
「お前、泊まったのかよ」
「悪いか」
 呆れのにじむような声だった。確かに、特級部1年の段階で研究室に入り浸る生徒は少ないだろうが、そんなことはどうでもいい。そいつは肩をすくめて答える。
「いや、研究熱心だなーと思っただけですよ。ノノトくん」
「その名前で呼ぶな」
 軽い口調だった。冗談なのだとわかった。それでも、反射的に言ってしまう。その名前は、思い出させる。俺が殺した、大事な人が呼んだ名前を思い出させる。必死につなぎとめようとしている、俺の名前。どんな声で、どんな響きで、どんな口調で名前を呼んでいたか。一つだって失いたくない記憶に連なるその名前が呼ばれるたび、フリーツの声が上書きされていくような気がするんだ。
 だから俺は。たとえもう二度と許されないとしても、俺の罪は決して消えないとしても、お前の全てをつないで持っていたいと願う俺は。何度だっていつだって、君が呼んだ名前を握りしめていたいんだ。