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Note No.6

小説置場

君のたより

 それはとてもしんどいけれど、同じくらいに楽だったのです。

 授業が終わって寮に帰る。出入り口の所に置いてある郵便受けを、いつもの習慣で確認すると見慣れた封筒が入っていた。薄いピンク色の封筒で、そういえばもうそんな時期か、とぼんやり思った。
 食堂を横目に通り過ぎ、人気のない廊下を渡り、自分の部屋へ帰る。上級生になると寮に入っている生徒はぐっと少なくなるので、随分人口密度が減ったようだ。今までなら、放課後帰ってくればほぼ絶対的に誰かとすれ違ったのに。
 それでよかった、と思う。何でもない顔をして、いつも通りの顔を取り繕う必要がない。ずっと相部屋だったリッシアなら、顔を作らなくても平気だけど、廊下ですれ違う友人相手じゃそうもいかないから。ピンクの封筒を受け取るたび重苦しくなる心の内を無理矢理封じ込めなくていいのだ。これも上級生になっていい所の一つだろう。
 制服を脱いで部屋着になってから封を開けた。中から出てきたのはやっぱり見慣れた便箋。封筒よりもっと薄いピンク――桜色をしていた。開けば、すんなりとした綺麗な文字が目に入る。ああ本当に字が上手くなったな。ずっと練習していたんだろう。机の前で何時間も動かないで。その光景を想像したら、胸がつきんと痛んだ。
 丁寧に折りたたまれた便箋を開く。見慣れた文字が、見慣れた言葉を書き連ねる。いつも同じ出だしから始まる手紙は、やっぱりいつもの通りに始まっている。
『お姉ちゃん、元気ですか』
 毎回この言葉から始まる手紙は、それから自分自身の近況へとつながり、家族や近所の人たちの話に結びつく。最近好きなものは、あんこのたっぷり乗ったお団子。お母さんが試しに買ってみたらすごく美味しくてびっくり。最近新しく出来たお店みたいだから、今度お姉ちゃんにも食べてもらいたい。そんなことが、やさしくおだやかな言葉で綴られている。
 手紙というよりは日記と呼んだ方がいいんじゃないか、という内容だ。どんな気持ちで日々を過ごしているのか、家族に変わりはないか、周りの様子はどうなっているのか。月に一度送られてくる手紙のおかげで、私は今までの月日を一緒に過ごしてきたような錯覚さえ覚える。
 隣の家に新しい家族が引っ越してきたこと。向かいの家が犬を飼い始めたこと。よく遊んだ空き地に家が建った、近所の公園は相変わらず象のすべり台がある、図書館が新しくなった。些細なことも大きなことも、この手紙にはみんな綴られていた。
 手紙は言う。『そういえば、川の桜に花が咲いたよ。せっかくだから、花びらを一枚同封しておきます。お姉ちゃんに、春の気分が届いたらいいんだけど』その言葉に封筒を引っくり返すと、はらはらと花びらが落ちてきた。ちょっと端が茶色くなりかかっているけど、間違いなく桜の花びらだ。私はそれを指でつまんで鼻先に持ち上げ、何だか泣きたいような笑いたいような不思議な気持ちになった。
 手紙の主を思い浮かべる。毎月欠かさず手紙を送ってくるのは、たった一人の私の妹。この世界に一人しかいない、私の妹。年の初めには手紙と一緒に写真(本人は嫌がるらしいけど両親が無理矢理撮る)が同封されるので、今どんな顔をしているかはわかる。私に似ない可愛い子だったけど、成長するにつれそれこそお人形さんみたいになっている。だから毎年、可愛くなったなぁと思っているのだ。
 だけどもう、どんな風に笑うのか忘れてしまった。どうやって怒るのかも、泣き顔も、私を呼ぶ声も。「おはよう」って言う声はどんなだった? 夜なかなか寝なくて怒られた時、舌を出して笑う目はどんな風にきらきらしていたっけ? 記憶はどんどん風化して、ほとんどが消えてしまっているのだ。
 川の桜は一体何本あったんだろう。言われてみれば存在自体は思い出せるのに、細かい所はわからなくてぼんやりとしか思い描けない。古い桜だったのか、真っ直ぐと立っていたのか、ねじれていたのか、幹は太かったろうか。私の頭に浮かぶ桜は、学校のものなのだ。随分年老いて、節くれだった幹を持つしだれ桜。新入生を迎える前には花びらを落とす。桜と聞いて真っ先に思い浮かぶのはそれで、同封される桜の花びらからは思い出の欠片もよみがえらない。
 我ながら薄情すぎて、笑ってしまいたくなる。思い出せないことが申し訳なくて、泣きたくなる。きちんと毎月手紙を送ってくれるのに、共有出来る思い出はどんどん洗い流されてしまっている。
 ひどい姉だと罵ってくれればいいと思った。手紙なんか寄越さないで、忘れ去ってくれればいい。私のいない生活を始めて、私のことなんて消し去ってくれてよかった。いないものだと思ってくれれば、私の存在なんてなくしてしまえばいいのに。
 思って、唇の端で笑った。確かに真実心から思っていることだけれど、こんなの単なるエゴでしかないのだ。忘れ去ってくれていいって、いなくなったと思ってくれればいいなんて、そんなの私の我がままでしかない。
 備え付けている便箋を取り出した。返事を書くために、ペンを走らせる。書き出しはやっぱりいつもと同じ。たった一人の妹へ向けて、毎回同じ言葉を紡ぐ。
『ナラへ お手紙ありがとう。私は元気です』
 たった一人の私の妹。愛すべき私のナラ。一つ違いのナラはいつだって私の後をくっついて来た。笑顔の素敵なかわいい子だった。ナラがいれば、家の中は明るかった。
『足の具合はどうですか。まだ寒い日が続くので心配です』
 続きを記すと、胸が痛んだ。いつまで経ってもこの痛みは色褪せないし、鈍る日なんて来ないのだろう。私が奪った。ナラの足が二度と動かないのは私の所為だ。後悔は今も私を苛み続ける。責め立てて、ちくちくと罪悪感を募らせる。
 ナラのためなら、どんなことだって厭わない。帰ることなんか出来なくていい。全てを勉強の時間にあてて、奨学金と報奨金と勝ち取る。時間があればお金を稼いで、少しでも将来の蓄えに回すのだ。
 これが足を奪った私に出来る唯一のこと。ナラのために生きて、何もかもを捧げて生きていく。それが私に課された使命なのだから――。
 手紙の返事を書きながら胸に疼くのは、どうしようもない後悔と、狂おしいほどの呵責の念。時折叫び出したくなって、大声でわめきたくなる。きっと永遠に、この体はあの日の重さを抱えているのだろう。傷はふさがらず、永遠に痛みを伴い続ける。安らぐ日など訪れず、ただひたすらに混沌としているのだろう。刻み込まれる罪悪が、安寧を奪い取る。
 胸の痛みを確かめながら、返事を書いた。まだここに痛みがあることに安堵して、ペンを置いた。心から思っていることに間違いはない。私はどうにかして罪をあがなわなくてはならないのだ。だけど、同じくらいに思っている。
 ここでこうして自分の罪を必死で抱えて守っていれば、肝心なことにも目を背けていられる。