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Note No.6

小説置場

青し

 君のためには生きられない僕を、きっと君は笑うから。

「……由月?」
 扉を開くと、出て行った時と微塵も変わらない姿勢のままで座っている由月が目に入る。筋肉一つ動かすことさえ自身に禁じているように見えて、ジクロは肩に手を置いた。
「もう遅いでしょう。そろそろ眠ったらいかがです」
 こんなことを言ってもうなずかないと知っていたけれど。案の定、由月は首を振った。何一つ言葉にしないで、ただ真っ直ぐと前を見つめたまま。それでも、ジクロは安堵していた。ここに縫い止められてしまいそうなこの子が、ほんの少しでも体を動かすことを覚えているのだと確認したような気がして。
「あまり根を詰めてもよくありませんよ」
 心配しているのは事実だったけれど、自分の言葉は何て無力なのだろうと、ジクロは噛み締める。何を言っても、どんな言葉を尽くしても、きっと由月には届かない。うなずかないし、休息を取ろうともしない。ただこの部屋で、この場所でじっと見守り続けているだろう。
「…倒れては元も子もありませんからね。少しでもお腹に入れておいてください」
 籠に入れたパンを差し出した。由月は真っ直ぐ前を見つめたままだったので、その手に籠を抱えさせる。振り払うことはしなかった。ジクロは部屋の隅から椅子を持ってくると、由月の隣に腰かけた。そして同じように、眼の前のベッドへ視線をやった。こんこんと眠り続ける、この家の幼い当主の姿を見つめる。
 呼吸は規則正しく続いていて、ゆるやかに上下する胸の様子が見える。心配することはないのだ。ただ、やや血を多く出しすぎてしまったことと、それに伴い本能的に力を解放してしまった所為で、彼の処理能力を超えてしまっただけだ。きちんと休みを取れば、彼なりに整理をつけるだろう。それが終われば、何ごともなかったように目覚める。癇癪を起こしたり、それが元で暴走したりする場面に何度か遭遇しているジクロはそれをよく知っていた。
 だから心配することはない、と言ってもそれが何の意味を持つだろう。ただじっと視線を注ぐ由月に、どんな言葉をかけた所で、渦巻く心の一部を掬い取ってやれるだろう。今自分が持っている言葉の無力さを、ジクロはよく知っている。
 ただひたすらに沈黙が流れる。由月は何も言わないし、ジクロも口を開かない。寝息の音と、時計の針の音だけが部屋に響いている。それがどれくらい続いた頃か、不意に別の音が混じった。
「……ぼくは」
 空気に紛れてしまいそうな、声だった。音として認識出来る、ぎりぎりの部分で発せられた声だった。真っ直ぐと前を見たまま、視線一つ動かさず、由月は唇を開いた。
「ぼくは、ライを殺してしまうところだった」
 うわ言のようだった。確かに由月の意識はここにあるのに、遠い場所に心を置き去りにしたような。あの瞬間に全ては取り残されてしまったような。か細い声で、心もとない声で、由月は続ける。
「ぼくのこの手で、ライを殺すつもりだった」
 感情は一つもなかった。後悔も恐怖も憐憫も、何一つそこにはなかった。ただ無機質に言葉だけが流れ落ちて、どんな悔恨も見当たらない。罪の意識も、失いかけた恐怖も、己を苛む響きもない。ただ事実だけを告げる、いっそ冷徹な声。
「殺されると思った。だから、ぼくはライを殺そうとした」
 己の命が脅かされた時、ほとんど反射的と言っていい速度で反応した。そこには感情も理論も入り込む余地などなく、ただ己の命を生かす、その本能しか存在しなかった。淡々と、ベッドに眠るライを見つめながら由月はつぶやく。
「何のためらいもなく、ぼくは引き金を引いた」
 銃を撃ったことのない由月は、衝撃にしたたか背中を打ちつけた。硝煙の匂いがしていた。痛みを抱えながらそれでも前を見た。今この瞬間まで己の命を握っていたライが、血の海に倒れていた。その時由月は叫んだのか。いいや、彼は瞬時に我に返ると、迅速に対応した。今この瞬間、自分の手で重大な傷を与えた相手に、適切な応急処置を施して命をつないだ。
「ぼくはきっと、殺してしまう」
 予想ではなく、確信だった。予言ではなく、事実だった。きっとぼくは、と由月は言う。ぼくはぼくの命を守るためなら、ライのことだって殺してしまうんだ。
 それは、とジクロは言いかけて口を閉じた。それは当然のことではありませんか。自分の命を守るためなら、誰でもそうするでしょう。しかし、由月はそんな言葉を求めてなどいなかった。ジクロに言われずとも、当たり前のこととしてとっくに受け入れているのだと、瞬きをしない横顔に確信していた。それなら、彼は何を言おうとしているのか。ジクロは言葉の続きを待った。
 重苦しい沈黙が流れる。今までの話など忘れてしまったような顔で、由月は前を向いたままだ。それでもジクロは何も言わない。急かすこともなく、唇を結んで待っていた。いくらでも、何時間でも、幾晩でも待っているつもりだった。
 由月は唇を開いた。無理矢理引き剥がすようにして、言葉を吐き出した。ぼくは殺してしまうだろう。自分のために、自分が生き残るために、きっとライを殺してしまう。だけど、だけど、それが苦しいんじゃない。嫌なんじゃない。そんなことじゃない。
「ライはそれでも笑っているんだ」
 殺そうとした僕を見て、自分を殺そうとした相手を見て、心底楽しそうに、笑うんだ。
 それは己の力に対する絶対の確信か。化け物と呼ばれるほどの強靭な生命力への信頼か。それとも――?
「嬉しいんだ。ライは、ライじゃなくて自分の命を守ろうとすることが、たまらなく嬉しいんだ」
 由月は拳を握った。あの瞬間、対峙した時由月は確信してしまったのだ。圧倒的なほどの力の差に、力そのものが具現化したような目の前の存在に、折れてしまいそうな自分自身をはっきりと確認した。このまま跪いて助けを請いたい。何もかもを捧げて楽になりたい。この力の奔流に飲み込まれてしまえば容易い。そう願う自分自身を悟ってしまった。
「自分を殺そうとする人間がいることが、喜びなんて嫌だ」
 吐き出された言葉は熱かった。横顔から見える瞳に、ほのかに静かに、それでも確かに炎が息衝いているのを、ジクロは見つめていた。黒々とした瞳に、揺らめいている。奥底から立ち昇り、燃えさかる。
「自分の命を危険にさらして、当たり前の顔してるなんて、許さない」
 言い放たれた言葉は冷たい響きをしていた。硬く鋭く、触れれば切れてしまいそうな。だけれど、横顔を見つめるジクロは理解していた。由月の言葉はただれそうな熱を孕んでいる。青く燃えさかる、目を奪われるほどの美しい炎を。


(僕に生きろと言った君が、簡単に死ぬなんて許さない)