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Note No.6

小説置場

照鏡

 幼い頃の、夢を見た。
 祖母がまだ生きていて、しょっちゅうまとわりついていた頃のことだ。祖父のことも大好きだったけれど、小柄で上品な祖母のことが、僕は飛びぬけて大好きだったように思う。
(おばあちゃん!)
 幼稚園に入ったばかりの頃だろうか。園から帰ってきた僕は、庭で水やりをしている祖母の胸に飛び込んだ。土の匂いがして、この匂いを嗅ぐと家に帰ってきた、という気分になったものだ。
 小さい僕は、その日にあったことをたどたどしく報告していた。祖母は帽子越しに僕の頭を撫でながら、話を聞いてくれる。店に出ている両親は忙しいので、僕の相手をしてくれるのは大体祖母だった。イギリス出身の祖母は、読み書きは若干苦手だったけれど会話だったら問題なかったので、楽しそうに僕の話を聞いてくれていた。
(それで、おばあちゃん―――、―――だけど、なんでかな)
 背中を押されて家に入り、手洗いうがいをしてから、居間へと赴く。おやつを用意している祖母の背に向けて、僕は何かを聞いていた。ぼんやりと霞がかっていて、質問の内容がわからない。祖母の英語特有の相槌が響く。
(宥、それは簡単ですよ)
 にこにと、と笑いながらプリンとスプーンを持った祖母が近づいてくる。行儀よく椅子に座った僕は、プリンに気を取られながらも祖母の言葉を聞いている。それはね、宥。やさしさだけで紡がれた声が降ってきたのは覚えている。
(――――からですよ)
 じわじわと滲み出す光の奥で。祖母がほほえんで、とっておきの言葉を口にしたようだった。
「……惜しい」
 ぱちり、と目を開けると見慣れた天井が見えた。今までの夢が頭の中に映し出されて、もう少しだったのにな、と思った。もう少し祖母の夢を見ていたかったし、もう少しで答えを確認出来た。自分の質問がわからないから何とも言えないけど、あんな風に取って置きの笑顔をしていたくらいだ。きっととてもいい言葉だったに違いない。
「お、宥。起きたか」
 どうにか夢の端っこでも捕まえられないものか、と考えあぐねていると、ひょっこり宗兄が顔を出した。起こしにきたのにつまんねーなぁ、などと言っているけど、顔が笑っている。
「メシ出来てるから、顔洗ってきな」
「……あ。ごめん、ありがとう。今日宗兄じゃないよな」
 軽い口調で言うので一瞬流しそうになったけれど。今日の食事当番は確か僕だった。
「いーって別に。お前疲れてたし」
 軽く手を振って宗兄は言うけれど、申し訳ない気持ちになった。
 平日は、早く起きた両親が食事を作っておいてくれて、各自で冷蔵庫から取り出して食べることになっている。休日とて早起きは例外ではないからそうしてもいいのだろうけれど、せめて休みの日は自分たちの分くらい自分で作ろうというわけで、兄弟二人食事当番が決まっているのだが。
「元々、俺につき合わせただけだしな」
「…そうだけど」
 言うのは昨日、高校まで出かけたことを言っているのだろう。出張花屋さんやるから、とか何とか言って借り出されてリヤカーを引かされて高校まで連れて行かれたのだ。シズ兄たち呼べばよかったのに、とも思ったけれどその言葉は飲み込んだ。何か事情があるのかもしれないし、ブーケやコサージュを作れる人間が必要だったのかもしれないし。花屋の子どもとして育ってきた結果、よほど難しくなければブーケの類は作れる。
「でも、別に。必要な人がいるんだし、宗兄が困ってるなら行くよ」
 本心だった。確かに疲れはしたけれど、無理をしていったわけでもないし、何より宗兄が「手を貸せ」と言うなら、一も二もなく従う。数え切れないほどお世話になっているし、助けてもらっているのだ。それくらい当然だろう。
 宗兄は俺の言葉に、にやりと笑った。大袈裟な仕草でぐりぐりと頭を撫で回す。
「おーおー。やさしい子に育ってお兄ちゃんは嬉しいぞ」
「…宗兄に育ててもらった覚えはないけど」
 軽口で答えると、楽しそうに宗兄が笑った。かたいこと言うな、とか言っているけれど、それから一つ言葉を落とした。
「でもマジで、ありがと。何にも言わないで来てくれて助かったわ」
 俺一人じゃ難しかったしなー、とつぶやく宗兄。その姿を見ていたら、どういうわけか唐突に、僕の頭には夢の映像が流れ出した。
 おやつを用意している祖母に向けて放った言葉。あれはきっと幼稚園でのことを思い出しているんだ。それまでの小さな世界から大きな世界へ飛び出した僕は、どうやら自分が異質なものであることを知った。それを悲観することはなかったし、自分を苛むこともなかったけれど。自分に向けられる好意ややさしさに、とても敏感にはなっていた気がする。だからあの時、尋ねたのだ。一部で気持ち悪いだとか、怖いだとか言われていた僕に向けて「ゆうくんは、やさしいね」なんて(恐らくめぐだかユキだかタカだ)、言われて面食らってしまったから。
(それで、おばあちゃん。ぼくのこと、やさしいっていうんだけど、なんでかな)
 僕は恐らく、特別なことをしたつもりなんてなかった。当たり前のことをしただけなのに「やさしい」だなんて言われて驚いてしまったのだろう。祖母は答えた。それは宥、あなたが気づかないだけで、やさしくしたんでしょう。
 どうして、という問いに祖母は笑って言ったのだ。どうしてやさしくしたのかな。そんなつもりはなかったのに。言う僕に向けて、それはね、宥、と続けた。
(それはね、宥。きっとその子が宥にやさしくしてくれたからですよ)
 取って置きの笑顔で、確か祖母は言ったのだ。
 プリンを目の前において、頭をやわらかく撫でて。一言ずつ、慈しむようにして。貴い言葉を紡ぐように、そっと耳へと声を落とした。いいですか、宥。強く凛とした、やわらかい言葉。
(誰かは自分の鏡です)
 やさしくしてくれたら、やさしくする。笑ってくれたら笑い返す。心を込めたから心を込めて返って来る。だから、怒った顔をしていれば相手も怒っています。意地悪をしたら意地悪が返って来るでしょう。そういうものなんですよ。
 確か祖母は穏やかにそう言っていた。なるほど、と僕は納得する。そうか、祖母はそんなことを言っていたのか。朝から特別な贈り物をもらったような気分だ。
「…どした、宥」
 何黙りこくってんだ、と宗兄に言われて我に返る。そうだ、まだ朝ご飯も食べていない。何でもない、と答えを返せば宗兄は不審そうな顔をしたけど、すぐに気を取り直したらしい。
「今日の目玉焼きは上手く行ったぜ! 心して食えよ!」
「うん。ありがとう」
 後ろをくっついて居間まで下りながら、こっそりと考える。宗兄は僕をやさしいって言ったけど、それはやっぱり宗兄が同じくらいかそれ以上、僕にやさしいからなんだろう。