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Note No.6

小説置場

Lecture1

「 螺旋の果てで君を待つ」

「天秤を思い浮かべていただければよろしいのです」
 丸い眼鏡をかけた講師は、そう言うと講義室を見渡した。今までずっとモニターしか見つめていなかったのに、いきなりそんなことをするものだから、ばっちり目が合ってしまった。ぼんやりとしていたことがバレただろうか。
「皆さんも、過去の計測用具としてご覧になったことがあるでしょう。もしかしたら、歴史博物館の展示で見たことがある方もいるかもしれません。確か、先月の企画展は計測の歴史でしたから」
 講師は淡々と、僕と目なんて合っていなかったような素振りで言葉を続ける。僕はほっと息を吐き、目の前に映し出されているモニターへ視線を落とした。いけない、いけない。大体の講師はみんな、モニターに向かって話をするもんだから、まさか目が合うなんて思っていなかった。
 とは言っても、あの講師もほんの気まぐれで顔を動かしただけのようだ。モニターを見つめもせず、ぼんやりと講義室を眺めていた僕に気づいても、特に何も言わなかった。叱責するでも注意するでもなく、またモニターに戻ってしまったのだ。講義室を見渡したのだって、首が疲れたから運動がしたかったとか、そんな理由だったのかもしれない。
「天秤での釣り合いを保つために使用されるものが何であるか皆さんはご存知ですね。そうです、分銅と呼ばれるものです」
 モニターの画面が動き、前時代的な天秤のグラフィックに「分銅」が追加される。注釈ボタンに触れれば、「皮脂等の付着を避けるため、取扱い時にはピンセットの使用が義務付けられていた」という文字が流れた。何て面倒な、と講義室のほとんどの人間は思っただろう。いちいち皮脂の付着をきにしなくちゃいけないなんて、効率が悪いにも程がある。
「要するに、移転先と現在ではこの"分銅"が釣り合っていなければならないのです」
 講師は、講義室の人間たちの感想など気にも留めずに言葉を続ける。きっとこの人は、即応型講義には不慣れなんだろう。慣れた講師は、時々疑問を掬い上げて雑談を挟んだりするものだ。いや、でも単純にそういうのが面倒なタイプなのかもしれない。あんまり気さくに話を進めたりすると、講義の後の質問ランプが点灯しっぱなしになってしまう。
「まったく釣り合わないものを移転することは不可能です。その点で、物質の移動には困難が付き纏うものがほとんどです。エレジオールの実験や、中河内事件などが主な事例ですね」
 ぴこん、と注釈ボタンが表示される。読むのが面倒だったので、注釈を開くのは止めにして講師の言葉に耳を傾ける。
「分銅の釣り合い――現在でも、我々が最も苦心するものであり、皆さんが何よりも気に留め、今後の研究を深めていただかなくてはならない分野です」
 講師の言葉は静かだった。しかし、講義室の人間たちを取り巻く空気がわずかに上昇したことは、誰もが理解していたはずだ。もちろん僕も。ここにいる人間たちは知っている。講師の言う所の「分銅の釣り合い」、この法則を解き明かすことが大きな意味を持っていることなんて、その栄華を己が掴み取ろうとしている若き研究者が五万といることなんて。
「過去から現在に物質を移動することは困難が付き纏います。今まで何度、過去に失われた重要文化財を現在に持ち帰り、保護しようとしたかもしれません。しかし、そのどれもが失敗に終わっていることは皆さんも周知の事実です」
 講師は平坦な様子で言葉を続ける。そこにはどんな感情もなく、ただ事実だけを述べる響きがあった。僕は今までに読んだ数々の論文、配信記事、国立図書館で閲覧したマイクロチップなんかを思い浮かべ、講師の指す事例を思い浮かべている。
 たとえば、先の大戦で焼失した絵画を持ち帰ろうとする試みは何度も行われていた。しかし、そのどれもが失敗に終わっている。講師の言う「分銅」が釣り合わなかったからだ。繰り返される失敗から膨大な分析が行われ、そうして判明したのは、絵画に使用される絵具やキャンバスに含まれる繊維の材料、そういうものの誤差だった。特に、過去に使用された絵具には現在では手に入らない成分が含まれていることが多々あり、その釣り合いを取ることが難しいらしかった。現在使用されている絵具では代用が利かないため、同じものとはみなされないのだ。結果として、分銅は釣り合わない。
 また、構成要素という問題もあったようだ。たとえば絵画一つを取った所で、一体どの色がどの程度使用されているのか、をいちいち分析しなくてはならない。寸分違わず、といった精度は求められていないようだが、それでもアバウトに絵具を一揃い置いておけば良い、というものでもなかった。一つの作品に対して、全ての構成要素を洗い出す、という作業は中々気が遠くなる。解析装置は開発されつつあるが、それも100%ではなかったし、過去においてイレギュラー(製作途中に万年筆のインキがこぼれてしまったとか、夫人の使用する香水が吹き付けられていただとか)が発生しているという可能性は非常に高い。それら全てを考慮して、何もかもの釣り合いを取ることは大変に難しい。
 同時代のものを用意すること。精度の高い構成要素分析を行うこと。これら二つを満たして、初めて分銅の釣り合いは取れるとされているのだが、現在はその条件を完璧に満たすことは不可能に近いと言われている。だから僕たちは、二つの道に進むことを余儀なくされている。完璧な条件を提示するか――この釣り合いに抜け道はないか。どちらか二つの道を模索するべく、僕たちはここにいる。