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Note No.6

小説置場

うつくしい、せかい。

 それだけが、それだけが、せかいのすべて。

 息苦しくも美しいこの世界でどうにか生きてゆくための術を、俺はいつの間にか持っていた。誰かに言われる前から知っていたように思う。息の仕方を時々忘れる俺は、代わりに絵筆を与えられたのだ。呼吸すらもままならないこの場所で、それでもどうにか生きてゆくために。
 城下という家は、この辺りで知らない者のないほどの名家だった。幸いだったのは、俺が三男として生まれていたことだと思う。期待をかけられることもなく、ただ体面さえ守っていれば大概のことは許される。だから俺はただ、絵を描くことに没頭出来た。有象無象の魑魅魍魎が入り乱れるこの場所では、上手く息も出来やしない。テストの成績と周囲の評判が命の家では、自由に物を言うことも許されない。俺が唯一、本音を隠さないでいられるのは絵の中だけ。俺が思う美しいものや尊いものは、みんな要らなくて無駄なものだと切り捨てられてしまう。愛することや慈しむことでさえも、俺が俺の心のままに行えば、気持ちが悪いと拒絶される。あってはならないのだと目隠しをされて、俺がおかしいのだと言い含められる。だから俺は、俺の中にあるきれいなものもうつくしいものもいとおしいと思う心も、全部絵筆に閉じ込める。俺の心を全て移してしまうのだ。言葉にすることもなく、絵の中に閉じ込める。そうすれば誰一人、俺の心に踏み込むことは出来やしない。俺は一人きりで、知る限りのきれいなものを詰め込んだ世界を前にして、生きてゆけばよかった。
 それは恐らくあの人が、俺の心を見つけてしまうまで。
 座敷を抜け出して縁側までやって来た。どうせ大して身のある話もしていないし、俺がいてもいなくても変わらないのだ。口を開けば、土地と金と権力の話しかしない親戚連中の顔を見ているより、外の空気を吸っている方が真っ当な人間のすることだと思う。滴るような緑の匂いを胸いっぱいに吸い込めば、体が浄化されていく気がする。欲望を体中に詰め込んで、ぎとぎとと目を光らせている連中と一緒にいると、それだけで汚物にまみれていく気分だ。
 もっともあの場所では、俺の言葉の方が異質だろう。どちらが正しいとか正しくないいとかの話ではなく、ただ単純に違うのだ。俺とあの人たちでは、大事にするものや優先事項の基準がまるで違っている。理解しようと努めることすら滑稽なくらい。
 つっかけを履いて、中庭に下りた。振り向いて座敷の様子を確認するが、誰も俺がいないことには気づいていない。いや、気づいているのかもしれないが黙っている。別にいなくなった所で困りはしないから、それも当然だ。頭上を仰げば、新緑越しの光が降り注いでいた。目をすがめて、若葉色を眺める。光までもが新緑の輝きをまとっているようだ。新緑の葉は、きらきらと光を弾いて世界を染める。いちめんのみどりいろ。匂いすらも同じ色だ。かぐわしくうるわしい、命そのもののような匂い。胸いっぱいに吸い込んだ。
 頭の先から爪の先まで、瑞々しい命に満たされていく。この瞬間を思い出しながら、命の匂いを感じながら、絵を描こう。今の俺の鼓動すら織り込んで、この風景をしたためる。俺の心をそのままに取り込んで。
 誰一人、俺の世界を知るものはいなかった。俺が心を動かされるものは、誰にとっても要らないもので、くだらないもので、どうでもいいものでしかなかったから。それなら俺は俺だけで、俺の思ういとおしさを大事にしていこうと決めていたのだ。それはとても寂しいことだと知ったのは、随分後になってからだった。
 振り返ると、座敷の様子が目に入る。相変わらず金儲けの算段だとか、投機筋がどうのとか、次の候補者の話とかをしているんだろう。俺と異質の世界に住むあの人たちは、太陽の光がやさしくなったことだとか、空の厚みの変化だなんてどうでもいい。不必要で無駄なことでしかないから、俺の言葉はずっと無視されてきた。だから俺も、心を閉じておくことにした。だって誰も、俺の話なんて聞いてくれないじゃないか。
(…あれ)
 座敷に注いでいた視線が、一つの人影を捕らえた。別世界の住人で言葉の通じない人たちの中にいる、小さな人影。
(悠也も来てたのか)
 父親の弟で婿入りして分家になった紺野家の長男、俺の従兄弟。そうだった、と思った。そうだった、俺の言葉が通じる人間は一人だけいたな。お互いよくしゃべる方ではなかったから会話が弾むということもなかったけれど。それでも、風の匂いが違うことや、土のやわらかさを知っていた。
 悠也がどういう位置にいるのかは知っていた。鈴森高校特進科へ進むことが当然とされる状況下で、どうやら特進科への進学が危ういらしい。確かに、模試でも成績はあまりぱっとしないらしく、よく槍玉に上がっていた。別に大したことではないと思うものの、城下家では重要事項だ。たったそれだけのことで、人間以下の扱いを受けるくらいには。
 気乗りのしない集まりだったのだろうけれど、欠席するわけにもいかない。だからこうして顔を出して、針のむしろに座り続けている。仏頂面になることも、自暴自棄になることもなく、ただ穏やかに物静かに。
 悠也は聡明な少年だと思う。二つ年下の従兄弟は、自分自身の能力を認めていないけれど、誰もそう言ってやらないけれど。だって悠也はきちんとわかっているのだ。もしも自分が不機嫌な顔をしていれば、一層強い非難を受けるのが誰なのか。もしも自分が行きたくない嫌だと泣いたなら、一層心を痛めるのが誰なのか。
(…わらった)
 控え目ながら浮かべられた微笑の先には、悠也の両親がいる。心配ないと言うように、何も辛いことなどないと言うように。
 特進科へ進むことが難しいと判断された時(模試の結果だろう)、悠也の両親はうちまで来て謝罪したと聞く。特進科へ進めないことを、城下家に恥をかかせたことを、わざわざ謝りに来たのだ。それが異様なことだと思うのはどうやら俺だけで、本家の人間も当然だと受け取っていた。悠也はきっとそういうことを全て知っている。口さがない人間が教えたに決まっているから。
 だから悠也は笑ってみせる。両親にこれ以上の負担をかけまいと、これ以上辛い思いをさせまいと。それはなんていとおしいほほえみだろう。こんな瞬間を描いていけたら、と思う。周囲の人間のことをきちんと見ていて、人の心に気づく人間であろうと努めている。自分の涙が誰の悲しみになるのかをよく理解し、おだやかに笑っていられる。自分の心をきちんと制御して、己自身を律して立つ人間の、どんなに美しいことか。
 自分の心にそっと仕舞う。やさしくて穏やかな、決して目立つことはないけれど、尊いこの少年の姿を思い留めておこう。そうして、世界中のうつくしいものすべてを、俺の感じたいとおしいものすべてを、みんなあなたに教えよう。あなたに全部あげよう。俺の目が映す何もかもを、俺の心が感じるあらゆるものすべてを。



(あなたにあげるうつくしいものがせかいのすべて)