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Note No.6

小説置場

晦冥に沈む

「木の下闇で待ち合わせ」


 後悔ばかりの人生だ。


 一つ深呼吸をして、ペンを机に置いた。明日の予習はもう終わっていたから、余裕を見て来週の分にも手をつけていた。それも目処がついたし、夜も遅くなっている。明日も学校があるのだし、もう寝た方がいいのだろう。明日の朝、眠くなって辛い思いをするのは自分なのだし。
 無意識に、深く息を吐き出していた。何の意志も感情もなかったはずだけれど、溜め息に似ていてどきりとする。無意識の内に、自分でも気づかない間に、自分自身へ溜め息を吐いたような錯覚。
(――違う)
 自分の感想に、自分で否の答えを返す。錯覚じゃない。きっと僕は、僕自身に対して溜め息を吐いたのだ。理性よりももっと素直な、本能と呼ばれるような部分で。
 だってそうだろう。英文の並んだノートへ視線をやりながら思うのは、いつだって頭を占めているいろんなこと。完璧だとは言えないけれど、これだけやっておけば明日の授業で困ることはないだろう。わからない部分もあるけれど、些細な点ばかりだし、授業で触れる点も含まれている。予習の領域としては問題がない。来週の分だって、もう少し詰める所はあるものの、それでもこれだけで切り上げても問題はなかった。不測の事態に備えて、時間がある時に手をつけておいた方がいいのだ。後になって困るのは自分なのだし、あの時やっておけばよかった、と思わなくて済む。
(いつだって、そうしてきた)
 僕の行動はいつだって同じ原理なのだと思う。後で困らないように、悔いることがないように、取り返しがつかなくなる前にどうにかしようと、行動しているだけなのだ。大した意味なんてないし、それは僕の臆病さの裏返しだ。後悔することが怖くて、その芽を摘みながら歩いて来た。後で思い悩むことがないようにと、出来得ることをしてきたつもりだった。
(それなのに)
 今の僕を見たら、過去の自分は何て言うだろう。出来るだけ傷は浅くて済むように、痛みは少なく済むように、僕は行動してきたはずなのだけれど。今の僕がきちんと成果を出しているかと言えば、首を傾げざるを得ない。
 努力してきたつもりだった。後で泣かなくていいように、傷つかなくて済むように、僕に出来ることはみんな、してきたつもりだったのに。
(結局僕は後悔ばかりだ)
 小さな頃から言い聞かされていた、鈴森高校の特進科にも入れなかった。鈴森高校以外の進学は外聞が悪い、とどうにか普通科には在籍しているけれど、特進科生以外の扱いなんて、嫌というほど知っていた。だから、そうならないようにしてきたつもりだった。親戚たちの通った塾に行き、睡眠時間を削って問題集を解いた。友達と遊ぶより、有名な講師の講義を聞きに行くことを選んだ。生活している時間は全て勉強にあてた。遊ぶことなんて後でよかった。合格すればいくらでも取り戻せる。だから今はただ机にかじりつくのだと、言い聞かせていた。
 その結果を僕はちゃんと知っている。いくら努力した所で、埋められない穴というのは存在していて、僕の努力は実を結ばなかった。そうして僕は、今の生活で、あの時捨て去ったものたちを眺めているのだ。こうなるなら、あの時一緒に遊びに行けばよかった。夏にはプールや花火に行きたかった。天気のいい日には外へ散歩をしてみたかった。ゆっくりと音楽を聴きたかった。
 狂おしいほどの後悔を、山のように持っている。だから、だからもう二度とこんな思いをしなくて済むように、決めていたはずなのに。
(僕は何一つ、成長していない)
 もう後悔なんてしたくなかった。後から自分自身の行いを思い返して、絶望的な気分に囚われることなんて、終わりにしたかった。それなのに、どうしてだろう。合格発表の日、もうこれ以上の悲しみも後悔もないだろうと思っていた。それなのに、どうしてだろう。
 今まで感じた全ての悔いを上回る後悔があるなんて、知らなかった。焦燥と憤怒さえ伴った、痛切な後悔があるなんて、知らなかったんだ。
(後悔したくなかった。もう二度と、悔いを残したくなかった) 
 確かにそう思っていたはずなのに、僕は僕を容易く裏切った。こんなことは知りたくなかった。あの日感じた後悔を、陵駕するような瞬間が訪れれるだなんて。
 僕は生涯、あの時声をかけなかったことを、永遠に後悔し続けるんだろう。
 思い出す。何度だって、繰り返し頭をよぎるのは、見慣れた後ろ姿だ。渡り廊下からふと視線を向けて、そうして捕らえた人影。よく知った姿だった。蔑みの視線が当たり前の中で、普通の顔をして声をかけてくれた。名前を呼んで、話をしてくれて、絵を見せてくれた。笑ってくれた。家族以外でただ一人、ほっと息を吐ける相手だった。
 見間違えるはずもなかったし、ちらりと眺めた横顔でそれが誰なのかは確信に変わった。二つ年上で、この辺りでは名だたる名家である城下家の人間。僕の従兄弟。天然パーマの黒い髪に、ほっそりとした体躯、白い肌。ゆっくりとした足取りで進む姿を眺めて、声をかけようかと思う。もしかしたら帰る所かもしれないし、それなら一緒に帰るのも悪くない。
 そうすればよかった。僕はそうするべきだったんだ。裏庭の方へ向かう姿に、用事もであるんだろうか、なんて思わなければよかった。声をかけることを、止めなければよかった。
(結局僕は後悔ばかりだ)
 用があるなら声をかけても迷惑だろうと、僕はそのまま学校を後にした。あの時、それでも声をかけていれば。名前を呼んでいれば。一緒に帰ろうと伝えていたならば、結果は何か変わっていただろうか?