Note No.6

小説置場

ひこうきぐも の ゆくえ

 濡れたアスファルトの上を歩く。さっきまで降っていた雨は上がり、嘘のように晴れている。雲は多少残っているけど、それくらいで丁度いい。これで雲もどっかに行ってしまったら太陽が常に直で出ていることになる。それは避けたい。今日は一日中雨だと思ったから、日焼け止めを塗ってないのだ。
「待ってよ、ナツオ!」
 傘を振り回しながら、叫んだ。振り向きもしないでナツオはずんずん歩いていく。これでは、大げさな動作までして呼びかけたわたしが間抜けじゃないか。
 腹が立ったので、ダッシュで一気にナツオの背中まで追いつく。そのまま軽くジャンプして、背中に蹴りを入れてやった。ナツオはつんのめり、それでもどうにか体勢を整えると素早く振り向いて、噛みつくように叫んだ。
「何すんの、フユイ!」
 振り向いた拍子に、ナツオの長い黒髪がびしっと顔面に直撃した。一瞬後それに気付くと、さっきまでの不機嫌はどこへ行ったのかと聞きたくなるような顔で、ナツオは笑った。それを見たわたしは思わず笑ってしまいそうになり、慌ててため息をつくふりをした。多分ばれてるけど。
 肩を並べて歩き出す。アスファルトの熱が足元から這い上がってくるのがわかる。水が蒸発しているのかもしれない。
「ナツオは笑ってた方がいい」
「……なにそれどういうこと?」
「ナツオは元からかわいいんだから、笑えばもっとかわいいよ」
 そう言った途端、ナツオはわたしの言葉に黙りこむ。それから間を置いて、今度は大声で笑い出した。
「な、なに言ってんのフユイってばそれ、遠回しな自慢?」
 あっはっはっは! と、空まで届きそうな風に笑う。そういうつもりじゃないけど、と一応言うものの、確実に説得力はない。だってわたしとナツオは同じ顔をしている。
「でも、ナツオは黙ってれば美人だってもっぱらの評判じゃん」
「黙ってればって、余計じゃない?」
「だって本当だし」
「それならフユイだって髪伸ばせば?」
 そう言って、ナツオがわたしの髪をつまんだ。自分の髪型にあらためて意識が向かう。
随分前からショートにしているから、自分でもこの髪型に慣れてしまった。それに、自分のロングヘアーバージョンが常にそばにいるので、特別髪を伸ばしたいという欲求にもかられない。
「……でも、フユイも髪伸ばしたら見分けつかなくなるから困るかもね。」
 それはそれで面白そうだけど、という顔をしてナツオが言った。確かにそれは面白いんだけど、でもけっこう面倒でもある。そういえば同じ恰好をしなくなったのはいつからだったけな、と思っていたらナツオが言った。
「……いつからだっけ、同じ恰好しなくなったの」
「あー、わたしも今考えてたよ」
 言いながら、思い出す。ナツオとわたしは、いつも同じ恰好をしていた。同じ色のTシャツに、同じ色のスカート、同じ色の靴下に、同じ色の運動靴、同じ色の麦藁帽子。みつあみを揺らしながら外を走り回っていても、ふとした時に気づくと、遠くに同じ人間がいてびっくりしたこともある。少ししてから、ああ、あれはナツオだ、と確認してやっと安心する。ドッペルゲンガーが現れた所でわたしもナツオも驚かないだろう。むしろ、名前でもつけてやるのに。
「……ああ、わかった。オルトだよ」
 沈黙の後で、ナツオが静かに言った。太陽が雲から出て来ていて、直射する。今さらながら暑さを確認してしまう。道の脇に並ぶ家は、ぴったり窓を閉めている。きっとクーラーでもかけているんだろう。
「オルトが、あたしたちを区別するようになってからだね」
「……ああ、そうだった」
 痛みのようなものと一緒に、オルトの名前を口の中でつぶやいた。オルト。血のつながらない家族。みんなオルトのことが好きだった。初めて会った時から、わたしたちはうまくやっていける、と確信できた。人気者のオルト。
 それにオルトは、家族だけではなくて、色んな人から好かれていた。近所のおばさんも、遊びに来たクラスメイトも、スーパーの店長も、駅員さんも、すれ違っただけの人でも、オルトのことが好きだった。どこかの国の王様だって、オルトに会えばすぐにオルトを好きになるに違いなかった。
「オルトは、わたしたちのこと間違えなかったね」
「あの人でも間違ったのにね」
 わたしたちは、確実に見分けてくれる人間が現れてから、自分たちの意志で同じ恰好をやめた。そしてそれを、わたしたちを産んだ人間に伝えたのだ。思えば、オルトのいたあの頃が一番おだやかだった気がする。あの人も、少し寂しげな顔はしてもうなずいた。成長したってことね、と笑っていた。それなのに。
「……オルトがいないから、変なんだよね」
 ぽつりとつぶやくナツオはきっと、あの日を思い出している。オルトの背中を見送った、あの日。いつものように笑って、行ってきますって言って、頭を撫でて出かけていった。玄関から飛び出して、ずっと見送っていた、あの日のことを、思い出している。
「仕方ないよね、あの人が変なのも」
 オルトがいないんだから、とは声に出さなかったけど、たぶんナツオもわかったはずだ。仕方ないんだ。だってオルトがいない。ナツオはいつもの笑みではなく、翳るような風に笑った。
「うん。あの人も変になるよね、オルトがいないんだから」
「…うん」
 だからわたしたちは、あの人が発作を起こせばこうして外に出てくるのだ。腹の底に溜まるものを抑えつけて、嵐が過ぎるのをじっと耐え忍ぶ。一人だけの理屈で生きているあの人は、放っておけばそのうちおとなしくなるから、適当に外をうろついた後、頃合を見計らって帰るのだ。
 ナツオとわたしは立ち止まって空を見上げた。アスファルトの匂いが鼻をかすめる。あたためられた水蒸気、足元を這う熱、生ぬるく過ぎていく風、じりじりとまとわりつく空気、並んだ家の庭木の影の色、陰影の濃い雲と、射るような太陽。それから、しっとりと水分を含んだみたいな青空。それを背景にした、一本の白い筋。
「……ひこうきぐも……」
 わたしとナツオの声はよく似ているから、そのつぶやきがどっちのものかはわからない。そんなことは大した問題じゃない。
 飛行機雲。オルトがいなくなったあの日、オルトが手を振っていたその後ろにあった飛行機雲。もしかしたら、オルトは飛行機雲に乗ってどこかへ行ってしまったのかもしれない。わたしたちはただじっと、空を見上げて立っていた。どこからか、夏がはじまるにおいがしていた。