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Note No.6

小説置場

それですべて

 手のひらからはみんなこぼれていってしまったから、もうここには何もないのです。掴んでいたと思っていたはずのものは、みんな消えてしまいました。全部わたしの手の中からなくなってしまったんです。
「それですべて?」
 そうです。わたしには何もないのです。もっと上手くできていると思っていたのに、そんなことはなかったのです。ああ、わたしは上手く笑えていると思っていたのに、そんなことはなかったのですね。
「それですべて?」
 あなたの問いかけにわたしはうなずくしかありません。
 大丈夫だと思っていたのです。決してわたしは優秀ではありませんでした。誰彼構わず声をかけることも出来なかったし、飛びぬけて頭がいいというわけでもありませんでした。誰かの目に留まることもなく、誰かの迷惑になることもなく。それでもただひっそりと、息をしていることさえわからないくらい静かに、潜るように生きていたのです。
 それですべてでした。わたしは決して不幸ではなかったのです。家があってご飯があって眠る場所があって、命の危機もなく暮らしていました。そうです、わたしは決して優秀ではありませんでした。何かが特別に出来るわけでもなかったし、特別輝く一点があったわけでもないです。それでも、どうにかなるんだと思っていました。信じていました。だけれど、それは思い違いでした。
「なくしてしまったから?」
 大丈夫だと、信じていたのです。こんなわたしでも、許されているのではないかと信じていたのです。追い立てられて疲れてしまって、そうしたら休むことも許されているんじゃないかと信じていたのです。だけれどそんなわけはなかったのです。わたしは優秀でもなければ惹きつける場所もなく誇れるものも何一つなく、ただ息をしていただけでした。だからこそ、許されなかった。休むことも立ち止まることも、出来ないと知ってしまった。知られてしまいました。わたしは許されないのだと知られてしまいました。だから、なくしてしまった。
「それだけ?」
 これだけです。これだけですべてです。何も出来ず何も生み出せず、何の役にも立たず、何一つ出来ないわたしに残されているのはこれだけなのです。休むことも許されず、弱音を吐くことも許されず、立ち止まることも許されず、何一つ許されなかったわたしにはもう何も残っていないのです。
 だって知られてしまったから。こんなにどうしようもないわたしを、みんな知ってしまったから。掴んでいたと思っていたし、信じていたものはそうして零れ落ちていきました。誰一人、何一つ、残りませんでしたよ。
「それですべてだね」
 これだけです。これですべてです。何もかもをなくして、こぼれていってしまったわたしが持っているのはこれだけなのです。
 わたしはうなずきながら、ボタンをはずす。長袖をめくりあげ、襟をわずかに開く。何一つつかめず、何一つ残らなかった。そんなわたしが持っているのは、手首に残る傷跡と、首に残る縄の跡。
「わたしにあるのは、ただこれだけです」