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Note No.6

小説置場

いのちのうた

 とても不思議でならないことがあるのです。

 ブランコを漕いでいる。きいきいと軋む音だけが響いていて、誰もいない公園はひっそりとしていた。四月になったとは言っても、夕暮れはまだ肌寒い。もう少し厚着をしてくればよかったかなぁ、と思わないわけでもないけれど我慢出来ないほどじゃない。地面を蹴ってブランコを漕げば、すいっと進む。くれかかる夕焼けが、屋根の向こうにちらっと見えた。溶けるようなオレンジ。融解する鉄みたいだ。とろりとしていて、触れたら怪我をするのに手を伸ばしてみたい。あの夕暮れに飛び込んで、何もかもを溶かしてしまいたい。この体に流れるのは、たぶんあざやかな血のはずだから、きっと綺麗な色が出るだろう。
 ブランコ独特の浮遊感に引き摺られながら風を切る。どこかへ進むわけでもなく、前に後ろに振り子のように揺れるだけ。それなのに、確かな負荷がかかっている。その内前へ進んで行けそうな気がしてくる。
 きい、きい、とブランコが軋んでいる。誰もない公園で、暮れていく公園で、闇に沈みゆく公園の中に響く、途切れがちな音。時折吹いてくる風に揺られて擦れる葉っぱ、耳の奥で聞こえる風を切るゴウという音、それから自分の呼吸。車の音も誰かの話し声も、どこかの放送も聞こえない。夜に紛れてしまえそうな錯覚さえ覚える。
 地面を蹴る。どこへも行けないブランコを、どこかに行こうとするみたいに強く、強く蹴る。悲鳴をあげるようにブランコは軋んで、延々運動を繰り返し続けた私の体は酸素を求めて喘いでいる。耳障りな息をする音、体の内側から響く心臓の音。
 空の端は段々暗くなり始めていて、空の真ん中も濃い青へと移り変わっていた。いちばんぼしはきっとどこかに見えるのだろうけれど、私にはわからない。往生際の悪い太陽からの、とろりとしたオレンジ色が西の方で燃えている。
 大きく息を吸った。きっと酸素が体を巡っている。私は息をしなくては生きていけないし、心臓が動いていなければ死んでいる。息が出来ないくらいで私はさっさと死んで、心臓がないと生きていけないようだ。体の中のちょっとしたバランスが崩れただけで、きっと私は死ぬのだろう。脳の何処かが損傷すれば機能は停止するかもしれないし、内臓の損傷が酷くて出血が止まらなければ、血液が足りなくなって生命維持は難しい。きっと、とても簡単に人間は死ぬ。だって、頑丈な皮を持ったわけでもないし、鋭い牙や爪もない。逃げ切れるだけの足もなく、逃亡するには身体能力は低すぎる。いっそ死んで行く方が当たり前で、死なないことは奇跡的なことなのかもしれない。
 だからかもしれなかった。生きていることが尊いだなんて言うのは。
 ブランコを漕いだ。ぐいぐいと、空を蹴り上げるように高く。間違って落ちてしまえば、頭でも打って死ぬだろう。死ぬための何かなんて毎日の生活に腐るほどあって、死んでいないで生きているなんて芸当が、どうしてこれだけの人間が成し遂げられるのかが謎だ。私だって、どうしてこの年まで死なずに生きているのか、疑問で仕方ない。
 不思議でならないことがあった。どうしたって私には思えないことがあった。当たり前のように言われるその意味を、私はどうしても理解出来ない。頭ではわかっているつもりだ。だって今ここにいることが奇跡のようだなんて、私だってよく知っている。それでも。
 とろけるオレンジが消えていく。空が染まる。暗い青色に塗り替えられて、辺りの空気の色が変わる。ブランコに乗って、空の真ん中に吸い込まれてしまいそうだ。このまま、どうかこのままあの空にぶつかってしまえたらいいのに。
 不思議でならないことがある。どうしても私にはわからない。昔から言われてきて、よく聞く言葉なのに、私の頭にはうまく染み込んではくれないのだ。
たくさんの偶然が重なって生まれて、たくさんの手助けとたくさんの気持ちとたくさんの人の手を借りて生きてきた。そうして育まれ、ここまで途絶えることがなかった。だからここにある、命。死ぬこともなく、ここまで生きてきたから、私はここにいる。ここでブランコを漕いでいる。殺されることなく、脅かされることなく、生きながらえてきた私と、私の命。奇跡のようだとかだから大事にしなくてはとか、言われたって私にはわからない。
 だって私には、私の命が尊いものだなんて、どうしたって思えないのです。


(命は尊い)
(けれど、私の命が尊いだなんて、信じられるものか!)