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Note No.6

小説置場

だって何も残らない

 夢を見ていた気がする。ずっと、ずっと深く、長い夢を。
 目が覚めた時に見えたのは、薄暗い板張りの天井。まだ日は昇っていないらしく、部屋中に暗闇が残っている。手探りで目覚まし時計を探したけれど、中々見つからなくて諦めた。
(ゆめを、)
 ぼんやりとした思考回路のままで、言葉がふわりと頭に浮かんだ。天井を見つめているけれど、単に網膜に光景を映しているだけだ。
(ゆめをみていた、きがするな)
 どんな? と言われてもわからなかった。夢を見ている最中はあざやかでくっきりとしていたはずなのに、目を開けた瞬間どこかへ消え去ってしまったらしい。いくら頭の中をさらってみても、ぼんやりとした輪郭だけがあって形はつかめない。
 それでも、かすかに残っているものはある。記憶の奥底の、心の深い場所に、焼け残った何かがまだはりついている。霧散しなかった夢の欠片が、どうにかひっかかっている気配。動いたらそれすら零れてしまいそうで、慎重に探れば燃え滓みたいな欠片に触れた気がした。
(ゆめをみていたよ)
 夢というには覚束ない。記憶というには頼りない。それはもしかしたら、遠い場所で誰かが見ている夢の断片を受け取ってしまったのかもしれない。自分のものではなくて、他の誰かの夢のかけら。他の誰かが持っている記憶の端っこ。それくらい、あやふやで不確か。
(ゆめをみていたよ)
 そうであるはずなのに、一体これは何だろう。二度、三度と瞬きをした。意識的にはっきりと、長い瞬き。目に映る景色は変わらない。見慣れたはずの、板張りの天井だ。何も不思議なことなどないし、当たり前の光景。それなのに、それなのに。
(どうしてこんなに)
 目を閉じる。真っ暗な世界に映る何かの端っこをとらえたくて暗闇に目を凝らすけど、何一つ閃かなかった。これじゃ後も追えやしない。そんなこと無理だってわかっているけれど。こんなにあやふやで曖昧な欠片じゃ、手を伸ばしたってかすりもしないだろう。だけど、それじゃ、駄目だった。
(胸が痛い)
 この痛みは何だろう。胸の奥にざわついている、この感じは一体なんだろう。
 見慣れたはずの天井が、違うものに見える。いつもの自分の部屋のはずが、どこかちぐはぐな空気をしている。ほとんど何も見えないのに、何かが違っている気がする。昨日までの自分と、どこか些細な、それでいて決定的な何かが違ってしまった気がする。こんなに、胸が痛い。
 夢を見ていた。輪郭すらもつかめない、あやふやでつかみどころのない夢だ。単なる夢でしかないはずで、それを覚えているわけじゃない。なのに、どうしてこんなに胸が痛くてたまらないんだろう。
 覚えてなんかいなかった。どんな夢を見たのか、欠片でさえも口に出来ない。それくらい綺麗に消え去ってしまっていたのに。この胸に残る痛みは一体何なんだ。何一つ覚えてなんかいないのに。何一つわかることなんてないのに。
(ゆめを、みていた、よ)
 誰かに問いかけるように胸の中でつぶやいた。せめてこれ以上こぼしてしまわないよう、身動きしないで天井を見つめたままでつぶやく。答える誰かがいないなんてこと、よく知っていたのに。
 ただの夢でしかないなんてことよくわかっている。それなのに、この胸を焼く痛みだけは本物だ。胸が痛い。見ていた夢の内容なんて一つだって覚えていないのに、胸が痛くて仕方ないよ。
 もう一度眠ったらきっと忘れてしまうだろう。夢を見ていたことさえ、もしかしたらこの痛みさえ忘れてしまうのだろう。こんなに胸が痛いのに。苦しくて、辛いのに。それすら忘れてしまうのだろう。だって夢だ。現実にあったわけじゃないし、実際に何かが起きたわけじゃない。いくらここで胸を痛めたって、きっと意味なんてない。この痛みすら含めて、忘れていくのだろう。
 夢を見ていた。あやふやで、確かなものなど何一つない夢だった。目覚めて感じたこの胸の痛みも、きっと夢のように消えていく。あるはずのないものや、生きているはずのない誰かのために涙を流しているみたいだ。そんなことに意味なんてないのに。この痛みすら、きっと消えていってしまうんだ。いくら夢に焦がれても、夢の世界に気持ちを移したって仕方ないんだ。よく知っている。この痛みも、泡のように消えていって、後には何一つ残らない。

 

(それでも、いたいよ)