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Note No.6

小説置場

ナイト・ワルツ

 部屋に響くのは、カタカタと鳴るキーボードの音だけだ。幸い明日の予定はないから、それなりに夜更かしをしても問題ない。まあ、きちんとした生活リズムを保っている方がいいんだろうし、我ながら体力がないという自覚もあるのだから、あまり無理をするべきではないと、わかっているんだけれども。
 それでも何だか眠るのが勿体無いような気がしたのだ。この夜をもっともっと満喫出来るような予感があったのかもしれない。
 私はキーボードへ指を滑らせながら、ちらりとパソコンの時計を確認した。そろそろ家人が帰ってくる時間だろう。基本的に宵っ張りの人だから、まだ起きていてもとやかく言われる時間ではない。と思う。
 画面にはちまちまと文字が現れて、文章は長くなっていく。だけれど、しっくり来なくてバックスペースキーを連打した。画面に空白が広がっていく。完全に見当違いではないけれど、これじゃない。ぴったりと合わさるはずの文章があるはずなのだけれど、どうにも見つからない。頭の中を探りに探って、小さな一欠けらを見つけ出さなくちゃいけない、と手を止めてしばし考える。目の前の画面をいくら見つめても答えは出てこないけど、ひたすら凝視して考えていた。
 しかし、ふつり、と糸が途切れるように息を吐く。止めた。こういう時はいくら考えても駄目なものは駄目だ。気分転換でもするべきだろう。思って立ち上がり、伸びをしながらキッチンへ向かう。お茶にしようか、オレンジジュースがいいかしばらく考えて、お茶に決定。氷を入れてとくとくとコップに注いだ所で、玄関で鍵の開く音がした。
 お茶の入ったコップを持ったままで、玄関へ向かう。ゆっくり扉が開いて、少しだけ夜の空気が流れ込んだ。
「お帰りなさい」
「うお、……起きてましたか」
 気まぐれに出迎えたり出迎えなかったり、なので、扉を開けた先に私がいてびっくりはしたらしい。だけど、すぐにいつもの通りの顔になるとそんなことを言った。
「まあねぇ。まだこれくらいの時間なら、そっちだって全然起きてるでしょー」
 普段を指摘して言うと、靴を脱ぎながらごにょごにょと何かを口にしている。「それは俺の場合でして」とか何とか、言い訳モードなのか若干目を白黒させている。
「俺は体力馬鹿だからいいんです。でも、あなたはそうじゃないでしょうが」
 しかめ面をしてつぶやかれたのはそんな言葉だった。そんなことを言われるとは思っていなかったので、今度はこっちが面食らってしまう。普段が普段だけに、自分もそうだし仕方ない、て言うかと思ったのに。
「この前だって熱出してたでしょうが」
「……微熱だけど」
「微熱だろうが熱は熱です。そういう人は、早く寝なさい」
 睡眠が一番の薬! と歌いながらリビングに入る。後を追うと、点けっぱなしのパソコンに気づいたらしい。大袈裟な口調で、「また遅くまでこんなことして」とか言う。
「あなたは体力ないんだから、無理は禁物」
 ほれ、さっさと寝る、と追い立てるように部屋を指した。そんなさっさと寝かしつけなくていいじゃん、という気分でいっぱいだったので、意思表示すべく唇を尖らせた。普段こんなことはほとんどしないのに、どういうわけか二人きりになると私はやたらと子どもっぽくなってしまう気がする。
「だって何か、寝るの勿体なくなっちゃって」
 冷えたコップに気づいて、口をつける。小さくなった氷が喉へ落ちる。きんとして気持ちが良かった。もう一杯飲もうかな、なんて考えつつ言葉の続きを乗せる。
「調子が良かったっていうのもあるし、いい音楽聞いてたっていうのもあるけど、もうすぐ帰ってくるかなぁと思ったら、寝ちゃうのが勿体なくて」
 心の底からそう言ったら、顔の上を色々な表情がよぎる。喜びのような、照れのような、誇らしさのような、そういうもの。私はじっとそれを見つめていたのだけれど。不意にこちらへ顔を向けて、はっきりと言った。
「それでも駄目です」
 断固とした物言いに、頑なだなぁと思った。一度決めたら梃子でも動かない。それがこの目の前の人間だ。まあ、そういう所も好きなんだけど。
 これはもう時間切れかな、と思ったので観念することにした。区切りもいいし、特別急ぐ仕事もない。そろそろ寝た方が、恐らく健康面でもいいだろうし、ここは従う方が得策だろう。そう判断して、コップのお茶を飲み干した。歯磨きでもするか、と洗面所へ向かおうとした時だった。
「これからしばらく、忙しくなるんですよ」
「……うん。知ってる」
 そんなの重々承知しているので、うなずいた。しばらく家に帰ってこなくなるし、本気で次顔合わせるのいつになるんだっけ? レベルになることもわかっている。だからどうしてそんなことを言うんだろう、と思っていた。そしたら、やわらかく言葉の続きを口にする。
「あなたが熱を出しても、俺は看病出来ないんだから」
 だから、風邪なんて引かないで下さいよ。
 困ったように目尻を下げて、ぽとんと言葉を落とす。笑おうとして泣き出す前みたいな、そういう顔だ。きっとこの人は、たった一人の部屋で伏せっている姿を想像しているんだろう。心細くて苦しい時を思い出しているんだろう。まったく、普段飄々としているくせに、変な時に心配性が発揮されるんだから。まあ結局、そんな所も好きなんだけど、と思ったらついつい笑みがこぼれてしまう。