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Note No.6

小説置場

うつくしいもの

短編・SS

 泥だらけで、涙でぐちゃぐちゃの君を、世界で一番綺麗だと思ったんだ。

「だってさ」
 鼻を鳴らしながら、君はつぶやく。滲んだ言葉が鼓膜を打った。吐き出された息が耳元にかかる。あたたかくて、くすぐったい。
「逃げるな、立ち向かえって言うけど、そんなの勝手だよ」
 ぎゅう、と力が込められた。背中に回された君の腕が、力の限りに僕を抱く。どくどく、確かに鼓動を刻む心臓の音が聞こえる。君の体を巡る血潮の音。酸素を巡らせ、一秒一秒を刻む命の音だ。合わされた胸から、僕の鼓動も響くだろうか? ここで確かに動いている心臓が、君に伝わるといいんだけれど。
「逃げていいんだ」
 きっぱりと言葉が落ちる。耳元で、熱い吐息とともに、焼き切れそうな強さでもって、君は言葉を紡ぐ。僕はただそれを聞いていることしか出来ない。
「立ち向かわなくっていい」
 僕の一片ですらこぼしてしまわないようにと、かき集めるように回された腕が、どうしようもないほど愛しかった。胸がいっぱいだ。どうしようもなかった。もうどうしようもなかった。溢れ出してしまいそうなほど、目の前の君が大切でならない。
「戦うことから逃げるなんて、当たり前じゃないか」
 卑怯なんかじゃない。だって誰だって思うだろう。戦いに進もうとするなら、大事な人が戦いへ赴くって言うなら、身勝手だって我侭だって、願ってしまうじゃないか。どうか、あなただけは安全な場所で生きていてほしいって。――願ってしまうじゃないか。
 きっと君はぼろぼろと涙をこぼしているんだろう。抱えられたままの体勢では視界が利かないから、僕には何一つ見えないけれど。抱きしめられた体が、わずかに震えているから。呼吸の調子が乱れているから。きっと君は泣きながら、それでも口を閉じることは選ばない。祈るように、敬虔な言葉を吐き出すように。
「逃げてよ」
 お願いだから、と君が言う。震える言葉で、懇願する。きっと君は僕の答えなんて知っているのに。それでも一縷の望みを託しているんだろうってわかるけど。ごめん、僕には君の望みを叶えてあげられそうにないんだ。
「――ボロボロになる前に、逃げてくれよ」
 君は僕の体を離した。すっかり密着して、肌と肌がくっついてしまったようだったのに。いとも容易く体は離れて、やはり僕と君は別人だったのだなぁ、とぼんやり思った。
 視線を感じて、僕は君を見た。後から後から、大粒の涙を流す君。なんて綺麗なんだろう、と思う。
 きっとここまで、わき目もふらずやって来た。転んでも、泥だらけになっても、それでも走ることを止めず辿り着いた。顔中泥だらけで、擦り傷もいくつかあるだろう。きちんと手当てをしていればいんだけれど。そんなことを思っていたら、君がきゅっと唇を結んだことに気づく。
 困ったな、と思った。きっと君は僕の状態を、もう一度意識してしまう。両足はたぶんもう駄目だろう。当初はひどい痛みに意識を飛ばしていたというのに、今や何も感じない。この足はもう駄目だ。それ以外にもあちこちが痛いのは、至る所に傷があるからだ。幸い骨は折れていないようだけれど、一体どれくらいの傷があるのかは自分のことながら予想がつかない。
「一緒に罵られるから。罵倒は全部引き受けるから」
 だから、ねえ、頼むから。お願いだから。透き通った涙と同じくらい、きらきらと光を通す君の言葉。天上の音楽のような声を聞いている。
「卑怯だって何だっていいから逃げてくれよ」
 くしゃり、と表情が崩れた。こらえていたものがふつりと切れてしまったのかもしれない。しゃくりあげながら、君は僕の名前を呼ぶ。耳慣れた文字の羅列、心地のいい声。僕はゆっくりと手を伸ばした。
 指先がやわらかな頬に触れた。君はいまだにしゃくりあげながら、涙のたまった瞳で僕を見る。自然と笑みが浮かんでいる。僕は口だけで「ごめん」とささやいた。
 ごめん。君の願いを叶えてあげられなくて。
 ごめん。これ以上一緒にいられなくて。
 だって僕はきっと、何度だって同じ道を選ぶ。何回やり直したって、いつも同じことをするだろう。ねえ、だって、簡単なことなんだよ。
 泥だらけの顔を見つめた。涙でぐちゃぐちゃの、崩れ切った顔。くしゃくしゃに顔を歪めている。指先で泥をぬぐった。大切で、大事で仕方ないんだ。だから、ねえ、間違わないで。
 戦うんじゃない。僕は決して戦ったわけじゃないんだ。当たり前のことを、僕にとって何の不思議もないことをしただけなんだ。だって例えば、息をするのに理由が必要かい?
 それと同じことだった。だから僕は、逃げる必要もなかったし、立ち向かうつもりもなかった。当たり前だった。考えるまでもなかったんだ。だからどうか、気に病んじゃいけない。
 視線を注いだ。泥だらけでも、涙でぐっしょり濡れていても。それでも、世界で一番美しい。僕の知る、この世でもっとも綺麗なものを見ていた。