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Note No.6

小説置場

無題

 きっと僕はとっくに知っていた。

 悲しいような気もしたし、笑えるような気分でもあった。僕にはもう自分の感情さえわからないらしい。
「……はは」
 暗い部屋に、乾ききって干からびた笑みが落ちる。本当に笑っているのかどうかさえわからないけど、たぶんこれは笑みなんだろう。胸の中がぐちゃぐちゃで、僕は一体どんな顔をしたらいいのかさえ判断がつかない。
 見慣れた部屋の壁紙を見るともなしに眺めながら、うずまくのはこれまでのことや今日までの色々の話。僕は一体どんな風に、これらの全てを受け止めればいいんだろう。
 たぶん僕は幸せだったんだろう。代わってあげるって言ったら手をあげる人間だって、嘘じゃなくいると思える。幸せ。幸せのはずで、僕自身だってそれを疑っているわけじゃない。だって明日にこの日々を失ったら、僕は狂おしいほど後悔するのだ。どうしてもっと大事にしなかったんだろうって、どうしてもっと大切にしなかったんだろうって、出来ることはたくさんあったのにって、気も狂わんばかりに後悔するってわかってる。
 わかってるのに、どうして僕はこんなにやるせないんだろう。どうしてこんなに、何もかもをめちゃくちゃにしてやりたいって思うんだろう。
「……」
 ぐっと拳を握った。唇は笑みのままだけれど、恐らく僕の眉は寄っている。ぐらぐら、視界が揺れている気がして、すぐに思い直した。視界が揺れているんじゃなくて、瞳に膜が張っているからだ。ゆらゆら、水膜が僕の眼球を覆っている。ああそうか、何だ、泣きそうだ。
 笑いながら泣きたくて、滑稽な自分が可笑しくてかわいそうだった。いくら強がりを言った所で、僕は自分が可愛くて仕方がないし、誰かに大事にしてもらいたかった。口で偉そうなことを言ったって、大切に思われたいし庇護されたいと願っている。
 幸せ? 幸せだって何を言ってるんだ僕は! さっきまで自分の中に渦巻いていた言葉を、今度は否定する。いや、否定とは少し違うのかもしれない。幸せだった。確かに僕は幸せなんだ。ただきっと、同じくらいに不幸なだけで。
 とても恵まれていると知っている。命の危険はないし、裕福な生活が送れるし、毎日安心して休む場所がある。きっと幸せなんだろう、僕は。だけど、僕にはたった一つ持てないものがあって、それはたぶん僕自身の所為だからだと、出来る限りのことはしてきたつもりだった。
 本音を言えない僕だから、どうにか本音を口にしようとした。全てが上手くはいかなかったけど、それでもどうにか伝わったと思えた。少なくとも、きちんと言葉にして声にして外へ出せたから。僕に出来る精一杯で、苦しいことも辛いことも表へ出せたと思った。受け止めてくれたし、罵倒されることも軽蔑されることもなかった。だから、いいのだと思えた。僕は僕としてここに生きて、苦しんでも辛くてもいいんだって。
 だけど、ああ、僕は何を期待していたんだろう。馬鹿みたいだ。幸せだって知っていたけど、同じくらいの不幸だって知っていたのに。一体僕は何を見て来たんだろうね?
 もしかしたら単に僕は自分を被害者ぶっているだけかもしれない。それは否定しないし、きっと正しい。だけど、だけど、僕の心だけは嘘じゃないんだ。こんな風に悲しみに満たされてやるせないのは嘘じゃないんだよ。
 ああそうか、僕の努力は一つだって伝わらない。悲しみも苦しみも、わかってもらえるわけじゃない。きっとそんなものはとっくに過去のものだったんだ。甘やかして、仕方ないって受け入れてくれるけど、辛いとか悲しいとか苦しいってことは、すぐに忘れ去られてしまうんだ。
 仕方ないと思う。いつまでだって他人の痛みを抱え続けるなんて無理ってもんだ。だけど僕は期待してしまっていたんだ。もしかしたら、ちゃんと僕の痛みのスペースをこの人たちは持っていてくれるんじゃないかって。淡いけれど期待してしまっていたんだ。
 うんそうだね、仕方ないんだよね、きっと。だってそんなこときっと僕には出来ないし――、他の人なら難なく出来ることが出来ない僕のことなんて、記憶に留めておく価値もないものね。
 あの人たちはきっと、僕を叩き出したりしない。追い出しもしないし、甘やかしてくれるだろう。だけど、どうしようもないほど生きているのが苦しいとか、辛かったんだとか、死んでしまいたいと思うことだとかなんて、過去のものでしかないんだろう。そういう僕自身のことも含めて受け入れてもらえるんじゃないかって、思ってたけど。
 面倒くさくない、いい子だけの僕しか要らないんじゃないかなって。どうしたってその思いが拭いきれないんだよ。まだ全然、信じきれないんだよ。疑ってしまうんだよ。こんな子はすぐに愛想尽かされてしまうだろうって思ってしまうんだよ。
 ああでも、そんなこと。そんな簡単なことだけは、心の奥底のはしっこに落ちていた、こんな気持ちだけは。ねえ、きっと僕はとっくに知っていたんだよ。


僕はここに、生きていてもいいですか。