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Note No.6

小説置場

さやに

 パーティー会場は水を打ったように静まり返っている。いつかこうなるとは思っていたが、それにしたってどうして今回なんだろう。まったく、初音の記念すべき社交界デビューだったのに。
  内心歯噛みしたい衝動に駆られるが、もちろん顔には出さない。自分の表情を隠すことなど日常茶飯事だったし、そういう狸だらけの場所なのだから仕方ない。冷静を装いつつ、それでいて心配そうな顔を混ぜ込んだ表情を貼り付けて、この場所の中心人物へ視線を向けた。
 真っ先に目に入るのは、艶やかな黒髪を結い上げた後ろ姿。藤色をしたカクテルドレスに身を包み、凛として立っている。決して臆することのない強さがにじみ出ていて、惚れ惚れしてしまう。それでこそ初音だ、俺の贈ったドレスも似合ってるし。
(……いやいや)
 うっかり鑑賞態勢に入りかけた自分に突っ込みを入れ、それ以外の人間に目をやる。初音の後ろにいるのは、黒髪をまとめて、クリーム色のカクテルドレスを着た女性だ。胸元の辺りに葡萄色の染みが広がっているが、十中八九ワインだろう。初音の前にいる、タキシードを来た若者が空のグラスを持っていることからして、彼がぶちまけたに違いない。
 初音以外の登場人物を確認し、今日のパーティーに出席している人間の人名録を頭の中でめくる。顔と名前の合致は重要課題だ。それはもう徹底的に叩き込まれたおかげで、すぐさま目的の人物を引き出す。
初音の後ろにいるのは、近年バイオ産業に新規参入し、めきめきと業績を伸ばしている老舗企業の若社長の奥方だろう。対して、タキシードの人間はやはり老舗企業の幹部で、主に医療品流通が主な業務だ。確か次期社長候補だったな。
 そこまで確認した所で、何が起きたのかを理解するのは容易い。あの奥方はこちらでも何かと話題になっていた人物だし、タキシードの彼は非常な血統主義だった。
「どうやらあなたは、謝罪すら出来ないようですね」
 静まり返った部屋で、真っ先に言葉を発したのは初音だった。ゆっくりと静かな声ながら、底にあるのは力強さだ。決して折れることのない、しなやかな。
「不注意で服を汚したなら謝るだなんて、小さな子どもでもわかることですよ」
 初音の言葉にやっぱりな、と確信する。クリーム色のカクテルドレスを着た奥方が話題になっていたのは、彼女がいわゆる庶民の出だったからだ。いくら血筋をさかのぼった所で、どんな貴族の末裔にも連なることがない。華族としての誇りを胸に生きてきた輩の数多いこの場所では、それだけで充分蔑みの対象になる。だから、タキシードの彼は不注意にかこつけて、ワインをぶちまけた、ということだろう。実にくだらない。
「そんなこともわからないだなんて、次期社長候補には常識もないのですね」
 嫌味の響きはない。それ所か、心からの憐れみに満ちていた。残念な子どもを見る目つきで、思わず笑い出しそうになる。心底初音は怒っているし、恐らくキレかかっている。しかし、心のままに暴れることが得策ではない、ときちんと判断しているのだ。さすが。
 初音はそれからもとうとうと、非常識でマナーに欠ける行いしか出来ないとは、可哀想でならない、といった顔で言葉を紡ぐ。さすがにタキシードの彼も黙ったままではいられず、きちんと謝罪を行ったではないか、と続けるのだが。
「あら。次期社長候補ともあろうお方が、言葉だけで済ますおつもりなんて!」
 大袈裟に目を見開き、口に手を当てる。それから、明瞭な発音で叫ぶように続けた。
「行動力もないなんて!」
 会社の行く末が心配だ、という顔をしているのでうっかり大爆笑しそうになった。やっぱり初音は敵に回したくないな。回さないけど。
 タキシードの彼は憤懣やるかたない顔をしていて、今にも爆発しそうだった。このまま見ていても面白かったし、俺がいなくても初音は上手くやるだろうな、と確信していたのだけれど、さすがにずっと傍観者でいるわけにはいかない。
「初音、一体どうしたのかな」
 初音たちの方へ進み出ると、見守っていた群集たちから声が漏れる。初めてここに来た初音の顔は知らなくても、俺の顔がわからない人間はいないのだから当然だ。案の定、タキシードの彼もうろたえている。
 初音は一通り俺に説明をしてくれた。予想通りだったので、自分がどんな行動をすればいいかもわかっていた。
「それは災難でしたね。それでしたら、うちのクリーニング室がありますので、どうぞお使いください」
 何せここはうちのホテルだ。それくらい軽い。まあ、普通なら不注意を起こした相手が平身低頭で、ドレスの染み抜きを行うか、新しいドレスを贈るか、というわけなのだが。タキシードの彼はもちろんわざとなわけで、そんなことをやるわけがない。
「お心遣いありがとうございます。ですが、そこまでお世話になるわけには……」
 やんわりと遠慮する辺り、奥方は常識人らしい。ここを辞して帰ればいいのだし、ということだとはわかっているのだが、はいそうですか、というわけにはいかない。
「いいえ、未来の妻の友人ですから」
 きっぱり言って、初音へ笑顔を向ける。すると奥方は目を丸くして、タキシードの彼はあんぐり口をあけていた。初音は照れくさそうに、それでいて嬉しそうに、薔薇色の頬で笑っている。
 奥方は恐縮していたものの、結局こちらの申し出を受けてくれた。俺が笹ノ宮ということにも気づいたらしく(うちのクリーニング室って言ったからな)、断る方が失礼だと踏んだんだろう。
 これであちらの会社とつながりが出来るな、と内心でラッキーだとほくそ笑む。タキシードの彼の所とは恐らく疎遠になるが、今後の成長具合を考えると、どちらに投資するべきかの答えは自ずと出てくる。それだけではないけれど。
「こっちです。……まったく、嫌になっちゃいますよね」
 奥方を初音が案内するので、俺も中座してついていく。少し時間を置いた方がいいだろう、という判断だ。初音は素に戻ったらしく、口調も砕けている。
「うちにも乾燥機なんてないですし。というか、自分で洗濯しない人間に言われたくないですよね」
 先ほど言われたらしき言葉に唇を尖らせているけれど、奥方は固まっている。まあ、それはそうだろう。笹ノ宮の名前は聞いたことがあるだろうし、どんんな家柄かも知っているはずなのに、その未来の妻が「うちに乾燥機はない」なんて言い出したら。
「あ、うちも普通の一般家庭ですよ。門から玄関まで5歩以内だし、お手伝いさんとかいないし、部屋狭いですし」
 初音の言葉に嘘はない。彼女の血筋をいくら辿っても、どんな高貴な人物も現れない。華族など見当たらないし、恐らく普通の農民なのだろう。だけれど一体それが何だというのか。
 奥方と並んで歩く初音を見つめながら、俺はぼんやり考えている。恐らく、奥方を通してかの企業との結びつきは強くなる。つまりバイオ産業への足がかりが出来るということだ。それなら一体誰と親密になっておけばいいのか、今日の参加者をあれこれと吟味する。
 笹ノ宮という家に生まれた時から、当たり前のように課されていることがある。全ての人間に番号を割り振り、一体誰が利益となり、誰が害をもたらすのかを見極めるのだ。呼吸をするように簡単に、それらすべてを行ってきた。だから奥方を助けることも、迷う余地がなかった。
 唇に笑みが浮かぶ。それらは決して嘘ではないし、真実でしかなかった。だけれど、もっと簡単な理由がある。奥方を助けたのは、初音がいたからだ。初音が彼女を助けたからだ。
 押しつぶされそうな責任と重圧を、隣に立って一緒に持つと笑ってくれたその日から。俺の1番はいつだって、初音のためにあるのだ。