Note No.6

小説置場

緑陰の庭

 一直線に続く塀と並行して歩くと、切れ間が現れる。一区画が丸ごと敷地になっているこのお屋敷の、正面玄関である。太い樹木が橋渡しされ、その上には立派な瓦屋根。重厚な門構えの隣には、まな板くらいの大きさの石材が掲げられている。刻まれた文字は随分と達筆で、慣れない人間にはどんな文字が彫られているか判別出来ないだろう。しかし何ら問題はなかった。この辺りに住んでいる人間であれば、掲げられた文字など読めなくても知っているのだから。この家が誰のものであるのか、この辺りの土地をほとんど持っている大地主の名前など。
 まなみは、慣れた動作で門の隣にあるインターホンを押した。漆でも塗られているのか(そんなインターホンが存在するのか不明だが、この家ならば特注で作らせる可能性が高い)、つやつやとしていて、家の構えによく似合っている。
 インターホンはすぐに応答し、まなみは名前を告げた。来訪することはとっくに知らせてあったし、何より付き合いは長い。程なくして施錠が解かれ、まなみは門をくぐった。正面扉ではなく、勝手口用の小さな扉ではあったけれど。
 中へ入ると、気温が下がったような感覚に襲われる。表の道路と違い、屋敷の中は一面の緑に覆われているからだろう。アスファルトではない土の地面は熱を溜め込むこともなく、適度に熱を逃がしている。それだけではなく、鬱蒼としげるこの緑こそが、気温を押し下げているのではないか、とまなみは考える。久しぶりに訪れたわけではないのに、随分と緑が濃くなった気がした。
 春はいたるところに花を咲かせ、桃源郷のような光景を見せる庭だ。それが終わって夏に向かうこの時期、ほんの少し目を離した隙に樹木はぐんぐんと若葉をしげらせ続ける。空が狭くなったような錯覚を覚えるほど、空間は緑に圧倒されている。
 この家は別世界のようだ、とまなみは思う。一般住宅とかけ離れた広さを持っていることは勿論、邸宅と言っていい家や、あしらわれた飾りや調度品、手入れの行き届いたこの空間、それらに増してこの家を別世界のように思わせるのは色彩だ、とまなみは常々考えている。
(この家は、何もかも色が濃い)
 まなみの慣れ親しんだ世界は、こんなにもあざやかな色を持っていない。春に咲く花の色は、この家の中でだけ目の覚める色を宿す。目の前の葉の緑にしたってそうだ。こんな風に、瑞々しい若葉は知らない。口に含んでみたくなるような、甘ささえ伴う緑なんて。
 広い庭を抜け、やっと母屋にたどり着いた。再び呼び鈴を鳴らせば、するすると扉が開く。下働きの老人は、まなみもよく知る人物だ。お互い顔見知りなので、心安く挨拶を交わしてから中へ通される。小さい頃から行き来していれば、下働きの人たちとも随分親しくなる。
 自分の部屋ほどの玄関から中へ上がり、衝立を通り越し(この衝立も名のある画家の手によるものに違いない)、二人が横に並んでもまだ余裕のある廊下を進み、まなみは目的の部屋に通された。
「まなみちゃん」
 襖を開いて中へ入れば、見慣れた顔が出迎える。自宅のリビング程度の広さの部屋に、床を延べてその中に身を横たえている友人は、襦袢を着てまなみへ笑いかけた。長い黒髪はゆるく下の方で結ばれている。何でもない髪紐のようだが、恐らくどこかの名産品なのだろうな、とまなみは思った。
梨沙子、大丈夫? 風邪引いたって聞いたけど。あ、これ提出用のプリント」
 鞄から二枚のプリントを取り出して渡せば、ありがとう、と頭を下げた。白くてほっそりとした指は丁寧にプリントを畳んだ。それから、まなみの方へ向き直る。
「そこまで酷くはないんだ。少しだるいかな、という程度なんだけど、おばあ様が大事を取るようにって」
 肩をすくめて困ったような顔をする梨沙子は、わずかに眉をしかめた。その所作でさえも、洗練されて見えるのは育ちの所為か、それとも容姿の所為か。考えたまなみは、両方だな、と結論づける。
 白い肌をして、艶やかな黒髪を持つ梨沙子は、人形のようだ、と評されることが多い。怜悧な目元とすっと通った鼻筋、愛らしい唇を持ち、笑いかける様は正しく高貴な人形だ。加えて彼女は、この辺りで代々と続く旧家・栖斐(すい)家のお嬢様である。
「実佐都くんは元気?」
「うん。実佐都はぴんぴんしてる。不公平だよね」
 まなみが言うのは、梨沙子の双子の弟のことだった。二卵性双生児ということで、鏡に映したようにそっくり、というわけではないけれど、仲のいい姉弟だ。一緒の時間を過ごすことも多く、片方がダウンするともう片方も引きずられるように寝込む、ということも多々あった。
「まなみは? 具合悪かったりしない? わたしの風邪が移ったりしたら大変」
「全然。すごい元気。最近暑いからちょっと嫌になってたけど、ここは涼しいし」
 気持ちいいね、と言えば梨沙子は見るからに顔を輝かせた。そうでしょ、と大きくうなずいて、だから夏はうちで過ごせばいいのに、と続ける。確かに、これだけ緑に囲まれた家なら、クーラーがなくても問題はなさそうだ。現に、何度か梨沙子にはそうしたらいい、と言われている。しかし。
「嫌だよ。梨沙子ん家、おばあちゃん怖いもん」
 いつも通りの断り文句に、梨沙子は溜め息を吐いた。桃色の唇からこぼれると、溜め息でさえも何かとても素敵なもののように思えるから不思議だ、とぼんやりまなみは思う。
「仕方ないなぁ。それじゃ、おばあ様がいない時にお泊り会しようね」
 約束だから、指きりげんまん! と小指を差し出してくる。幼い姿に苦笑しながら、それでも梨沙子の提案に否はないので、まなみは自分の小指を絡めた。